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ダーウィニズムを超えて 32

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
 そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。

統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著

(光言社・刊『ダーウィニズムを超えて科学の統一をめざして』〈2018520日初版発行〉より)

第三章 ドーキンスの進化論と統一思想の新創造論

(二)闘争か調和か

 ドーキンスは「“歯も爪も血まみれの自然”という表現は、自然淘汰(とうた)というもののわれわれの現代的理解を見事に要約していると思う(*22)」と言い、「普遍的な愛とか種全体の繁栄とかいうものは、進化的には意味をなさない概念にすぎない(*23)」と言う。

 しかしコンラート・ローレンツ(Konrad Lorenz, 190389)が強調しているように、動物界での戦いは抑制のきいた紳士的なものである。すなわち、動物界では同種の個体同士の闘争はよく見られるが、それらはなわばりの占拠や侵入、防衛に関する雄同士の闘争であることが多く、繁殖期には、雌の獲得をめぐる闘いにもなるのである。このような同種間での闘争は、相互にどれほど激しい攻撃が行われても、原則として相手を殺すようなことはない。闘いの最後には、一方が降伏して退散するのである。

 そのような事実をドーキンスも認めており、「同種殺しや共食いは実際、自然界に見られないことではないが、遺伝子の利己性理論の素朴な解釈から予測されるほどふつうではないのである。……ナチュラリストが動物の攻撃の狂暴さを強調するか、抑制を強調するかは、一つには、その人が観察してきた動物の種類によって、一つにはその人の進化論上の先入観によって決まる(*24)」と述べている。ドーキンスはチスイコウモリ(vampire bat)の例を挙げて、チスイコウモリに対して、次のような二つの観点が成立するという。

 チスイコウモリはさまざまな神話を生み出している。ヴィクトリア朝風ゴシック様式の熱心な愛好者にとっては、チスイコウモリは夜にまぎれて恐怖をふりまき、生命体液を抜き取り、ただ渇きを満たすためだけに罪もない命を犠牲にする邪悪な力であった。これに、「歯も爪も血まみれの自然」というもう一つのヴィクトリア時代の神話が結びついており、チスイコウモリこそ、利己的遺伝子の世界についてのもっとも深い畏れを具現するものではなかろうか?(*25)(太字は引用者)

 コウモリそれ自身にとって、血は単に水より濃いだけのものではない。彼らは血縁のきずなを乗り越えて、血の盃をかわした誠実な兄弟分としての永続的なきずなを形成するのだ。チスイコウモリは心地よい新しい神話、分配し、相互に協力しあうという神話の先陣となることができる。利己的な遺伝子に支配されていてさえ、気のいい奴が一番になることができるという慈悲深い考えの先触れをすることができるだろう(*26)。(太字は引用者)

 そのように、自然を見つめるとき、二つの観点によって、異なる二つの解釈が生まれるのである。ドーキンスの観点は言うまでもなく「歯も爪も血まみれの自然」である。そしてその根底にあるのが利己的な遺伝子である。ドーキンスは「自然淘汰は、自己複製子(遺伝子)が互いにしのぎをけずって増殖する過程である(*27)」という。すなわち遺伝子と遺伝子の闘争によって、自然淘汰(自然選択)を通じて、進化が起きるというのである。

 ドーキンスは「自然界は自己複製子(遺伝子)の戦場(*28)」であると言うが、これは「戦いは万物の父」と言ったヘラクレイトス、「万人の万人に対する戦い」と言ったホッブス、そして「事物は闘争によって発展する」と言ったマルクス等の闘争理論を生物の世界にもち込んだものである。すなわち唯物弁証法の生物版にほかならないものである。

 このようなドーキンスの闘争的な自然観に対して、統一思想は「自然は愛の教科書」であると見る。文鮮明師は次のように語る。

 創造者はすべての被造物を一つの例外もなく、愛のために創造したのです。愛が創造の動機なのです。さらに愛は神ご自身のためにあるのでなく、他に奉仕するためにあるのです。この二つの原理によって、神は万物を創造されたのです(*29)。

 存在するすべての鉱物、植物、動物は、何を根源としてつくられたのでしょうか。それらの生命自体を見て喜ぶためではありません。その根源は、どこまでも真の愛を模倣したのです。真の愛を中心として、あるものは東方何度の位置に存在し、またあるものは上下、前後のある位置に存在する立場で、愛の象徴的、形象的な実体として展開されたのです(*30)。

 チーターはガゼルを捕らえて食べているが、ドーキンスは、「ガゼルが追いつめられて死ぬ——彼らのほとんどが結局そういう運命をたどる——ときには、恐ろしい苦痛と恐怖に苦しむことは想像に難くない(*31)」と述べて、残酷さを強調する。他方、『ナショナルジオグラフィック』(日本版、20051月号)に紹介されている「チーターの母の愛」の記事にあるように、チーターの母から子に受けつがれる生きる術(狩り)の中に、親子の強い愛の絆(きずな)を観察することもできるのである。

 自然界は、小さなものは大きいものに吸収されながら、より大きいものを支えている。しかし小さなものはたくさん繁殖するようになっているのであり、決して滅びることはない。海の中ではプランクトンが大量に発生し、魚たちを支えている。小さな魚は大量に繁殖して、大きな魚を支えている。その頂点にいるのがクジラやマグロなどである。海のギャングともいわれるサメは、海の中で傷ついたものや弱ったものを片付ける役割をしている。陸上では草食動物が大量に生まれ、肉食動物を支えている。もし肉食動物がいなくて、草食動物がどんどん増えれば、食料としての植物が不足して、草食動物も生存できなくなる。植物、草食動物、肉食動物はバランスを保ちながら共存するようになっているのである。

 ドーキンスは、人間も含めてすべての生き物をみな同格とみなして、人間や動物が他の動物を殺して食べることを非情で冷淡だと言う。そして「私がこの一文を考えている瞬間にも、何千もの動物が生きたまま食われているし、恐怖に震えながら命からがら逃げている動物もいるだろうし、身体の内部から、いらだたしい寄生虫に徐々にむさぼり食われているものもいる(*32)」と、悲惨さを強調している。

 しかし、すべての生き物を同格に扱うのは間違いである。植物が動物に食べられる時、苦痛を感じているだろうか。小さな魚が大きい魚に食べられる時、苦痛と恐怖を感じているだろうか。そんなことはない。草食動物が肉食動物に食べられる時は、ある程度の苦痛と恐怖を感じているかもしれない。しかし、それは人間が人間同士の殺し合いで感じるような苦痛や恐怖と比べることはできない。捕らえられて食べられる時には、餌食となる動物は捕食者に吸収され犠牲になりながら、より大なる存在を支えていると見るべきである。人間は動物を殺して食べる。動物を虐待しながら、殺して食べるのは良くないが、動物を愛し、感謝しながら、食べることは非情な行為ではない。


*22 リチャード・ドーキンス、日高敏雄他訳『利己的な遺伝子』紀伊国屋書店、2006年、3頁。
*23 同上、314頁。
*24 同上、98頁。
*25 同上、362頁。
*26 同上、363頁。
*27 リチャード・ドーキンス、日高敏雄他訳『延長された表現型』紀伊国屋書店、1987年、254頁。
*28 同上、229頁。
*29 文鮮明、「ソ連一五共和国代表への演説」世界日報、1991511日。
*30 文鮮明、『後天時代の生活信仰』光言社、2005年、154頁。
*31 リチャード・ドーキンス、垂水雄二訳『遺伝子の川』草思社、1995年、191頁。
*32 同上、192

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 次回は、「われわれは遺伝子の乗り物か」をお届けします。


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