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信仰は火と燃えて 16
親子のきずな

 「信仰は火と燃えて」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。
 教会員に「松本ママ」と慕われ、烈火のような信仰を貫いた松本道子さん(1916~2003)。同シリーズは、草創期の名古屋や大阪での開拓伝道の証しをはじめ、命を懸けてみ旨の道を歩んだ松本ママの熱き生きざまがつづられた奮戦記です。

松本 道子・著

(光言社・刊『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)

親子のきずな
 多くの人々が集まってくるようになると、寺田町にあった教会もいよいよ狭くなってきました。そこで、もう少し大きい所に移ろうと鶴橋に家を見つけ、汚い長屋をあちこち直して、さあ、行こう!と意気込んでいる時、突如として東京に帰るようになってしまいました。ちょっと拍子抜けした感じでしたが、もう大阪の基盤もほぼでき上がっていたので、すぐ東京に上がってきました。1966年の秋のことでした。東京での私の仕事は巡回師でした。小河原節子さんと二人で北海道から九州まで、弥次喜多の親子版のようにして回りました。「パパ」と呼んで慕ってきた西川先生は、前年、アメリカの開拓のため、韓国からサンフランシスコに行ってしまわれました。今まで、すべてを委(ゆだ)ね、頼ってきた先生がアメリカに行ってしまうと、何か無性に寂しくて、心の中にぽっかりと穴が開いたようでした。ちょうど子供をほっぽり出して、親がどこかに行ってしまったような気持ちで、その寂しさをこらえながら、一生懸命巡回して回ったのです。

▲アメリカに帰られる西川先生をお見送りして(羽田空港・1967年3月29日)

 その後、1968年に韓国に行く機会が訪れました。そのころには、兄と姪(めい)も入教して重要な任についていました。私が統一教会に入教した時、牧師の話を真(ま)に受けて、異端だといって6年間反対し続けてきた兄でしたが、姪が「統一原理」を聴き始めたので、とうとう兄も一緒に聴くようになったのでした。そして、自分の耳で聴いてみて初めて、自分の妹は偉大なことをやっているんだということを悟り、即座に自分も入教したのでした。

 私にとって、ソウルに行くのは生まれて初めてのことでした。韓国の片田舎で生まれ、そこから、いきなり東京に来て以来55年間、伝道のために名古屋に行ったり大阪に行ったりしたことはありましたが、それ以外はどこへも行かず、まさに江戸っ子として育ってきたのです。初めて祖国の都へ行くというだけでも感動で胸がいっぱいなのですから、その上に同じ志をもって意気投合し、兄と姪と連れだって行くのは、まさに感慨無量でした。

 3月の最も寒い時でした。この時韓国では、市民劇場を借りて統一教会の合同結婚式が行われました。この世のものとは思えない華麗で荘厳な結婚式を目の当たりに見て、私は驚きのあまり胸が詰まり、感激の涙をおさえることができませんでした。その中には、日本の責任者である久保木夫妻と姪も加わっていました。

 結婚式が終わると、それぞれのカップルは再び韓国全土に散っていきました。私たちは、ソウルの教会の近くにある家に泊まることになっていました。私たちのためにわざわざ空けてくださったもので、周りには統一教会創立のころから苦労してきた大先輩がたくさん住んでいました。

 そこでまず驚いたのは生活の貧しさでした。その生活ぶりはひどく惨めなもので、日本では私もずいぶん苦労したつもりでしたが、私の苦労など及びもつかないもののように思われました。天上のことのように華麗な結婚式とあまりに貧しい生活、韓国に着いてからは、何から何まで驚きの連続でした。

 そのころ文先生は、結婚した教会員の教育のために、全国を巡回していらっしゃいました。釜山(プサン)から順々に、教会がある所へはすべて行かれました。そして、先生がソウルの近くの水原(スウォン)という所に来られた時に、私は先生のお話を聴きたくて、兄と一緒にはるばる出掛けて行ったのです。

 雪の降る夜、ジープに乗って水の教会に着いたのは午後6時ごろでした。先生は8時ごろ到着され、すぐお話が始まりました。それは私が韓国語で聴いた初めての話で、聴いているうちに今までにない不思議な気持ちになってきました。先生に会うのは今回が初めてではないのですが、日本で会った時とは全く違う近さ、親しさを感じたのです。

 日本に来られた時の先生は、自分とはとても遠い人のような気がしました。“あの人がこの偉大なる原理を解かれた人だ”という畏敬(いけい)の念が先立ってしまい、すべてを見抜かれているようで、目を見るのが怖く、いつも下を向いていました。偉い人だ、怖い、とただそれだけで、慕わしい思いなどわいてくる心のゆとりがなかったのです。パッと見る時の目が怖くて、毎日縮みあがってぺこぺこするだけでした。

 ところが、この日は違っていたのです。先生は韓国中を巡回してきたので、声はかれ、目は引っ込んで、体全体が疲れているようでした。目の下には隈(くま)ができていて、会った瞬間、「ずいぶんお疲れのようだな」と思ったほどでした。先生と一緒に巡回してきた教会の指導者の人たちは、もう疲労困憊(こんぱい)してしまって、こっくりこっくり居眠りをしています。けれども先生だけは、カッと気力を出して語っているのでした。先生の話は言葉が早く、聴き取りにくいのですが、一つ一つの言葉の響きがとても懐かしく親しみを感じるのです。もちろん話の内容もすばらしいものでしたが、それよりも韓国の親しい言葉が、理屈ぬきでひしひしと私の胸に迫り、何か温かいものが伝わってくるようでした。

 先生は、集まった人々に向かって、厳しくしかったり決意を促しながら、時々足の裏をたたいていました。ずっと立ち続けているので足の裏が痛いのです。その疲れた様子を見ているうちに「あんなに疲れてかわいそうだなあ」という思いが込み上げてきました。それは疲れた父を思いやるような気持ちでした。

 すると、その気持ちにたたみかけるように、先生のお祈りの声が聞こえてきたのです。「天の父よ」と親しく呼ぶその声音(こわね)、そしてさっきまで厳しくしかっていた先生が、とても優しい声で、僕(しもべ)が主人にお願いするように礼儀を尽くして、神様に語りかけているのです。

 「ここに集ったあなたの子供たちは、あなたの願いを知って、それを全うすることに青春を賭(か)けてきました。食べるものがなく、着るものがなくても、こぶしを握って裸で走ってきたのです。どうかここに集まったあなたの子供たちをあなた自ら祝福し、最後まであなたの前に忠誠を尽くすことができるように、あなたの天軍、万軍をつかわして助けてください」と切々と神様に訴え、私たちのために執り成しの祈りをしているのです。

 先生は泣きながら祈っていました。その祈りを聴いていると、私のために祈ってくださっているということがひしひしと感じられて、有り難くて絶叫して泣きました。声を張り上げることができないので、口を押さえてウンウンとうめくように泣いたのです。

 お祈りが終わると、「さあ、食事をしましょう。日本から来たメンバーはこちらへいらっしゃい」と呼んでくださいました。御夫人が心配して、疲れているのだから早く食べて休んだほうがいいと勧めましたが、「いや、いいんだ」とおっしゃって、一人一人におかずを分けて、一緒に食事をしてくださったのです。私は、その先生の姿をじっと見つめて、いい知れぬ懐かしい思いにかられていました。

 この方はなんと偉大な人なのだろう。いくら神様からこの世の人々を救ってほしいと啓示を受けたからといって、縁もゆかりもない全くの他人の私たちのために、朝から晩まで語り続け、目に隈ができ、声がかれて足の裏が痛くなっても、大地をたたいて泣きながら、この子たちを祝福してくださいと天にすがるように祈り、また私たちに対しては、最後まで神様の願いの地上天国を建設し、人類を救わなければならないと厳しく叱咤(しった)しつつ、み言(ことば)を与え、悪いところを削り落として、立派な人間につくりあげようと苦労されているのだ。

 こうして普通の人では考えられないような、人智を越えた苦労を思った時、“この人こそ私の真(まこと)の親だ”という強烈な思いが、実感として胸に迫ってきたのでした。この人こそ私の真の救い主だ、本当のお父様だ。私の永遠の生命を保証し責任をもってくださる、私の悪い思いをみなぬぐい去り、立派な神の娘として成長させてくれるこの人こそ本当のお父様だ! 私は心の中で、何度も何度もそう叫んでいました。すると、自然にわき上がってくる思いに心は燃え、この感謝の気持ちをどう表現していいか分からず、9回も10回も先生に敬礼しながら、私はただ涙にむせぶばかりでした。そして、ようし! これから日本に帰って、私は命を懸けて働くぞ!という決意がふつふつとわいてくるのでした。

 この時まで、先生はあまりにも偉くて怖い人でした。けれども、韓国に来て、実際に先生がやっておられることを見、涙で語る言葉と執り成しの祈りを聴き、私たちのために疲れている姿を見た時に、震いつきたいほどに先生が恋しく、慕わしくなってきたのです。そして、この方こそ私のお父様だ、永遠の命の親だということをはっきりと知ったのでした。この出会いによって、それまでとは全く違う、親子という深い心情のきずなを結ぶことができたのでした。

 日本に帰る前に、兄と二人で母のお墓参りに行きました。母はクリスチャンでしたから、二人で墓の前にひざまずいて、「お母さん、あなたは十字架の道を歩んできましたが、私たちは、そういうお母さんに導かれて、十字架の道を越えて神の創造目的を全うしようとする世界基督(キリスト)教統一神霊協会に入りました。ありがとうございました」と報告したのでした。

 お世話になった兄に背いて家を飛び出した時は、兄にはずいぶん反対されました。けれども今は、天国建設のための神の偉大なるみ旨の道を、二人そろって歩んでいるのです。その幸せをかみしめながら、希望に満ちて日本へと帰ってきたのでした。

▲韓国で(1968年2月)

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 次回は、「世界に広がる救いの輪」をお届けします。


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