コラム・週刊Blessed Life 286
偏向するメディア権力

新海 一朗

 日本の統治機構は、立法(国会)、司法(裁判所)、行政(内閣)の三権分立で成り立っていますが、それに言論(メディア)を加えると、四権構造になります。
 言論は第四の権力といわれ、三権に対して監視の目の役割を担っています。

 国会を監視し、裁判所を監視し、内閣を監視するというわけですから、メディアがどのように報道するかを三権、言い換えれば、政治家も裁判所も官僚も皆、メディア権力を非常に気にせざるを得ないのです。
 マスコミにどのように流されるか、マスコミは何を書いたか、何を語ったか、メディアの動向に常に神経を使うわけです。

 このように、メディア権力は「監視」の役割を担っているので、その役割の性質上、現行の政治に対して、野党的立場(批判する立場)に立つことが多いと言えます。

 批判的に検証し、注文を付ける。そうすると、ジャーナリズムは、監視役として、三権よりも上に立つような上位意識を持つようになります。
 メディアが、しばしば思い上がった左翼的偏向に陥ってしまうのは、その役割からくる必然的な帰結かもしれません。

 しかしそれ以上に、大学で左翼的な思想を学んだ人間たちが、数多く言論界に就職し、左翼活動をジャーナリズムの世界で継続する現実がありますから、メディア権力の左翼的傾向が決定的になるという構図が出来上がっているのです。

 このような中で、言論人が道徳的であるか、責任感を持った誠実さで役割を果たすか、あるいは、画一的に同じ論調で報道するのではなく、正しいと思ったことを率直に自由に表現する力を持っているかが問題となります。

 すなわち、道徳言論、責任言論、自由言論を行う能力があるのかないのかが問われるわけです。テレビを見ても、新聞を読んでも、同じような内容、論調でほぼ統一されている左傾化した報道に触れる時、日本には自由な言論がないと痛感することがあります。

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 日本の場合、新聞・雑誌に対する国民の信頼度は非常に高く、反対に政府に対する信頼度は低いというデータ(図表参照)があります。
 従って、もし新聞・雑誌が偏向した内容を流し続けると、国民はそれを信じてしまうという傾向が決定的となります。

 これは由々しい事態であり、日本のマスメディアの良識が問われることになります。
 無責任な言論、偏向した言論は避けるべきです。
 日本国民がテレビ報道を信じ、大手各社の新聞をうのみにして信じてしまう傾向が先進国の中で最も高いという不名誉なデータは驚くべきものです。

 現在、「旧統一教会」うんぬんで、連日報道されている内容を見ると、申し合わせたように一律で、まるで結論ありきと言わんばかりに宗教法人の解散を騒ぎ立てている状況は、異常と言わざるを得ません。

 民法の案件を刑法で裁くというその違法性に誰がお墨付きを与えたのか、全く無責任な裁判闘争になっていることが不条理極まりない限りです。

 メディア権力自体が、思考停止に陥ったかのように、刑事裁判を要求する愚を犯していますから、その意図は明らかです。
 民事裁判では解散ができないので、刑裁判を実施せよと要求しているのです。

 刑法で裁く条件、内容がないにもかかわらず、刑裁判を実施するのは、「解散」というたった一つの結論に持っていくことを望んでいるからです。
 現在の日本のメディア権力には良識が見られず、極端な偏向のみが目立ちます。