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私の心の中にいる神様 176
誰が決めたの?

 良心との対話で、ワクワク感が止まらない!
 毎週土曜日に配信予定です。

誰が決めたの?

(男性 30代)

 教会のスタッフ(中高生担当)をしています。
 中高生の大きなイベントの前日のことです。皆で準備をして、食事も一緒にした後、中高生は皆疲れてしまって、ちょっとだらけている雰囲気でした。
 皿洗いもせず、皿がキッチンにそのまま積もっている状態でした。

 「このままだとまずいな。私が片付けた方がいいかな」と思う一方で、「部長という立場の自分がやるのは、教育上、良くない。自分たちでやらせた方が、彼らの成長にもなる」という思いが湧いてくるのを感じました。

 ところが、それに対して、「部長がやってはいけないと誰が決めたの?」と問いかけてくる声を感じたのです。
 それは、どうも良心の声のようでした。
 しかし、なかなか素直にその声に従えず、葛藤してしまったのです。

 その葛藤の原因を追求していくと、「部長という立場なのに自らやらないといけない状態とは、日頃、中高生にどういう教育をしているのか」と、周りから責められるのではないかという恐れがあることに気付きました。

 「そうか、人から責められるのを恐れているだけだったんだ」と、原因が分かってすっきりした私は、良心の声を選択して、平安な気持ちで皿洗いに取りかかったのです。

 ところが、ところがです。
 洗い始めたら、また別の思いが湧いてきたのです。
 「部長が率先垂範している姿を見たら、中高生にも良い教育になるな!」と自画自賛する思いです。

 中高生が私を見て感動して、「部長、すみません!」と謝ってくる。これは自然屈伏の良い証しになる! そして教会のみんなから評価を受ける!
 こんなストーリーが頭の中で組み立てられました。完璧でした(笑)。

 でも、実際に中高生がやって来て私にかけた言葉は、「あ、部長。そんな洗い方したら、床がビチョビチョですよ!」でした。
 私は完全に妄想に囚(とら)われていたのです(笑)。

 神様の意図は、私の意図とは全く別のところにあることがよく分かりました。
 評価されようがされまいが、良心の声を選択していく先に平安があることを、改めて体験しました。

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 次回は、「父母は態度を変えない」をお届けします。


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