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スマホで立ち読み Vol.22
『日はまた昇る 蘇る日本』3

統一思想研究院・編著

(光言社・『日はまた昇る 蘇る日本』〈2012101日初版発行〉より)

 スマホで立ち読み第22弾、『日はまた昇る 蘇る日本』を毎週水曜日(予定)にお届けします。
 1960年代から80年代にかけて日本と世界の共産化の危機を救ったのは、文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁の勝共運動だった! 本書では文総裁の歩みを紹介し、共産主義の理論の批判と代案を提示するとともに統一思想の観点から見た日本再生のビジョンを提唱します。

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Ⅰ 共産主義の終焉と天一国時代の到来

2)キリスト教の不信と十字架路程

 ところが2千年前に来られたイエスが、メシヤを迎えるために神が4千年準備してこられたユダヤ教から迫害されて、十字架にかけられたように、再臨のメシヤを迎えるために、神が2千年準備してこられたキリスト教が文先生を迫害し、文先生は十字架の道を歩まなければならなくなりました。しかし文先生は十字架で亡くなるのではなくて、十字架を背負いながら苦難の道を歩むという路程になったのです。それは再臨主の使命が生きて神のみ旨を成就することであったからです。

 第二次大戦直後に、キリスト教が新郎として文総裁を受け入れていたならば、7年以内に世界は統一されたことでしょう。もし、そうなっていたならば今日このように、文総裁は70歳を越えても十字架を背負って受難の道であえぐ哀れな男にはならなかったのです。40代において、世界を統一していたことは間違いありません。先生は、そのような内容を持ってやって来たのです。(文鮮明 1992.5.10, ソウル)(『ファミリー』1992.11, 44)

 イエス様当時、洗礼ヨハネという、ユダヤの人々からメシヤのように崇められていた人がいました。彼は生涯、イエス様に侍り、イエス様の道を整える使命を持っていましたが、イエス様につまずき、不信してしまいました。洗礼ヨハネの不信仰はイエス様を十字架に追いやる要因となりました。194510月から19464月にかけて、文先生は洗礼ヨハネの立場にあった金百文(キム・ペグムン)の率いるイスラエル修道院に入っていかれました。ところが、金百文が文先生を不信したために、文先生はそこから出ていかざるを得なくなりました。そして文先生の十字架の道が始まりました。

 1946527日、文先生は突然、天から北に行きなさいという命を受けて、平壌に行き、そこでみ言(ことば)を語り始めました。当時、平壌は東洋のエルサレムと呼ばれ、キリスト教が最も盛んなところでした。信仰の深い信徒たちが文先生のみ言に導かれて文先生のもとにやって来ました。ところが自分の信者が奪われていくことを危惧(きぐ)した牧師たちが、「羊泥棒!」と言うなか、北朝鮮当局により、宗教と称して詐欺をしたとの罪で文先生は1946811日、大同保安署に拘束されました。そこには主を迎える準備をしていた神霊集団の幹部たちが投獄されていて、獄中で文先生に出会いましたが、彼らも文先生を受け入れませんでした。そして文先生は、南韓のスパイとして嫌疑をかけられ、ひどい拷問を受けて、19461121日、半死状態のまま外に放り出されてしまいました。

 通りかかった弟子たちによって介抱された文先生は、絶望的な状態から奇跡的に回復されました。そして再びみ言を語り始めましたが、牧師たちの執拗な訴えによって、1948222日、再び内務省に拘束されました。47日に公判が開かれ、多くの既成教会の牧師や信徒たちが見つめる中で、社会秩序紊乱という罪を着せられて、重労働5年の刑を言い渡されました。そして1948520日から19501014日、国連軍によって解放されるまで、文先生は興南(フンナム)収容所において重労働を課せられました。


興南の硫安工場の全景

 キリスト教が文先生を排斥した結果、再臨の摂理は挫折し、真なる救世主に代わって、共産党を中心とする悪なる救世主として金日成(キム・イルソン)が現れることになったのです。そして真なる救世主を殺そうとしたのです。

 第二次世界大戦後に7年間で天国を成すべきはずでしたが全部失ってしまいました。先生は追放され荒野に追いだされたのです。……共産党を中心として悪魔の救世主が現れて、真なる救世主を殺そうとしたのです。(文鮮明 1995.4.23, ニューヨーク)(『ファミリー』1995.9, 21)

 興南収容所は戦前の日本の財閥が建設した朝鮮窒素肥料株式会社の興南工場でした。収容所では、厳しく過酷な強制労働が課せられていましたが、粗末な食事がわずかしか与えられませんでした。そして最初の1年間で40パーセントの囚人が死ぬという、地獄のような状況でした。そのような状況にあって、文先生は「人はパンのみによって生きるにあらず」と、与えられる御飯の半分を他の囚人に与えて、愛の力で生きる決心をされました。文先生は興南収容所の体験を次のように語っています。

 先生は、北の共産党の牢獄に入って2年8か月(興南では2年5か月)、重労働した。何の労働かというと、肥料工場だ。硫酸アンモニアの工場で、粉がコンベヤーで工場の真ん中に落ちるようになっていて、それをはかりにかけて袋に詰め、貨車に積み込む。共産主義の作戦で、重労働させて殺すようになっている。ここに入って3年たつとみんな死ぬ。必ず、間違いなくそうなる。3年以内に。食べ物をやらずに重労働させるのだから、この工場に入ってくる者は、まず完全に処分できる。

 先生は、共産党の政策を相当知っているから、それに引っかからないようにした。先生は、与えられるご飯の半分で生きる決心をした。人問は、パンによって生きるのではないんだよ。神様からの言葉で生きるんだよ。どうせこのご飯では死んでしまう。だから、このご飯の半分で生きようと決心するまでに半月かかった。

 先生は、みんなが嫌がるこの難しい仕事を自分が担当する。この難しい仕事を続けたら死ぬ。だから、この一番難しい仕事をやり抜く体力をつくるより生き抜く道がない。皆さんも一番難しい仕事を担当せよ! そういうように前進的に考えよ!(文鮮明 1970.10.13, 韓国・水澤里)(『マルスムポケット4・祝福に関する御言葉』90〜92)

 どれくらい腹が減るか。ご飯がどれくらい欲しいか。それは話にならないや。自分の家族とかが面会に来る。来る時は何かを持ってくるので、どんなに恋しい妻でも、慕わしい母でも、来た人の顔を見るより先に、まず持ってきたものに目が行く。面会の時は持ってきたものを食べられる。どんなに会いたい妻でも母でも、そんなものより食べられることがうれしい。

 このパンを慕うほど神を慕うか。先生は毎日、比較対照しながらやってきたんだよ。何よりも神を愛さなければならない。このご飯の一握りを食べるために入ってくるのではない。万人の蕩減[罪を贖うこと]の道を開拓するために入ってきた。自分の仕事の分配に対して、不信するような態度は絶対とらない。だから先生は有名だった。(文鮮明 1970.10.13, 水澤里)(『マルスムポケット4・祝福に関する御言葉』95〜97)

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 次回は、「救世主の救出」をお届けします。お楽しみに!



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