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平和の大道 20
文化・文明が日本に流入する主要ルート

 皆さんは、『平和の大道』という書籍をご存じでしょうか。著者は、一般財団法人国際ハイウェイ財団の理事長、佐藤博文氏です。
 同書は、国際ハイウェイ財団が推進する「国際ハイウェイ・日韓トンネル」プロジェクトの意義や背景などについて総合的に理解することのできる貴重な一冊です。
 Blessed Lifeではその一部を抜粋して紹介してまいります。ぜひお楽しみに!

佐藤 博文・著

(『平和の大道-国際ハイウェイ・日韓トンネル-』より)

 先回で、「日韓トンネル完成を前提とすれば、福岡と釜山を結ぶ地域一帯、すなわち福岡を中心とする北部九州地域と釜山を中心とする韓国南部地域一帯が、来るべき環太平洋新文明の中心地域、新しいエルサレムになる」という文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁の予言的な話を紹介した。

 今回は、なぜそうなるのかという客観的な根拠や可能性を、地理的な観点を中心として論じることにする。読者の皆さんは世界地図の中の北東アジアのページを開いて、地図を眺めながら読み進んで頂きたい。

対馬の地勢

 対馬は、東は日本海、西は黄海、東シナ海に面し、南北82km、東西18km、面積710㎢とサツマイモのような形をしていて、福岡市から約140kmの距離にある離島である。

 魏志倭人伝に「始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。その大官を卑狗(ひく)と曰ひ、副を卑奴母離(ひなもり)と曰ふ。居る所、絶海。方四百里ばかり。土地は山険しく、森林深く、道路は禽鹿の径のごとし。千余戸あり。良田無く、海物を食つて自活し、船に乗りて南北に市てきす」と記述されている。

 この簡単な地理的叙述は3世紀のものながら、太古以来、少なくとも明治までの対馬の自然と人文を正しく活写している。全面積の90%が200mから600m級の山々で覆われ、平地に乏しい。山国であり、稲作ができる平野が少なく、生活条件が厳しい。

 島そのものは日本の他の比較的大きな島々と変わらない離島である。しかし、日本列島、韓半島、中国東北部(満州)、中国北部、日本海、東シナ海、黄海、渤海湾からなる北東アジア地域のほぼ中央に位置する対馬の「地理的位置」が、北東アジア地域一帯の、とりわけ日本と韓国間の文化・文明の交流、政治・経済・軍事上きわめて重要な意味を持つのである。

交通の十字路

 九州と韓半島との間に壱岐と対馬がある。佐賀県唐津から壱岐まで約30km、壱岐から対馬まで約50km、対馬から韓国巨済島まで約50kmである。対馬と壱岐は韓半島から見ると、日本に船で渡って来る際の「飛び石」のような役割をする。この「飛び石」があるため、船が小さく、操船技術が未発達の古代においても、韓半島と九州間は、晴れた日には、島が見えるほどの距離なので、島を見ながら船で渡って行けた。

 遠洋航海術の未発達な時代においては、日本と韓半島を海路で結ぶこのルートだけが比較的安全な通路であった。それゆえ、韓半島から対馬、壱岐に至るルートが、アジア大陸と韓半島の文化・文明を日本に流入させる主要ルートであったことを意味するのである。

 次に、日本海、黄海、東シナ海、朝鮮海峡、対馬海峡等の海洋から見た対馬の位置を見てみよう。対馬は東西の海洋を結ぶ位置にあり、北東アジアの海上交通の要路に位置する。それゆえに対馬と対馬海峡は、江戸時代後期から、西洋列強の交易、軍事上の拠点としての意味を持つようになった。

 ロシアは1861年、対馬に上陸したことがある(ポサドニック号事件)。イギリスは1885年、済州島の近くに位置する巨文島を占領した。日露戦争時の日本海海戦の主戦場は、対馬沖東約50km近辺であった。

 韓半島と九州を結ぶ南北の線と、黄海・東シナ海と日本海を結ぶ東西の線が対馬で十字に交差しているため、交通の要衝となっている。現代は航空機の時代であるため、たとえ離島であったとしても島からの直線距離が意味を持つ。対馬から1000km以内に、東京、大阪、ソウル、平壌、大連、瀋陽、上海、そして1000kmから1500kmの間には、札幌、北京、台北、ウラジオストク等の諸都市が入る。

 対馬に「国際空港」ができれば、北東アジアの「へそ」に位置する対馬が北東アジアの主要都市と12時間内に往来できるようになる。今は小さな国内空港しかないために福岡と長崎からの航空便しかなく、東京や大阪からの直行便はない。ここに国際空港ができ、日韓トンネルも開通すれば、日本と韓国は陸続きになり、対馬が北東アジア地域の陸・海・空のハブ的な交通要地となる。

文明(稲作、鉄器、神道)の流入

 中国、北方アジア、韓半島の文化・文明は、古代から、韓半島から対馬、壱岐を経由して九州へと伝わり日本全土に伝播されていった。稲作もこのルートを通じて流入し、日本各地に伝播されていった。そして、日本に稲作の弥生式農耕が開けたことで倭国が成立した。

 さらに韓半島からの鉄器の到来(5世紀までは輸入)により、農耕地が飛躍的に拡大し、「国土」が出来上がった。鉄につながって倭も韓も玄界灘を往来するようになり、未耕地の多い日本地域に韓半島から人々が集団をなしてやって来たに違いない。6世紀以後の鉄生産の飛躍で耕地が広がり、人口が増え、やがて諸方の豪族を圧倒する大和政権が成立する。

 『街道をゆく(13)壱岐対馬の道』(司馬遼太郎著、朝日文庫)の186189ページでは、「日本固有のものであると考えられている神道は、その源流は、実は、モンゴル高原の北方騎馬民族の祭天の習俗が、韓半島を通ってまず対馬に伝わりそこで一つの形をなし、九州に伝播され、日本列島において神道になった。その神道の源流である古神道が対馬には色濃く残っている」と言っている。

 古事記の中の海幸彦・山幸彦の神話の舞台は、実は宮崎県ではなくて対馬であるとも言う。対馬に海神神社、和多都美神社がある。両方ともワダツミと読む。豊玉姫命と山幸彦を祭っている。豊玉町もある。浅茅(あそう)湾には海神宮(わたつみのみや)という海底の宮殿があるとも言われている(竜宮伝説)。

 韓半島と日本との交流が途絶え、「国境線」ができたのは、663年白村江の戦いで日本軍が敗れた後からであった。それまではこの一帯には国境という概念もなく、地理的境界線もなく、自由に往来していた。白村江の戦い以来、正式な交流が途絶えていたが、江戸期になって、鎖国状態であった日本の対外交流の窓口となったのは長崎の出島と対馬であり、対馬藩だけが李氏朝鮮との交易が認められ、細いルートを通じて韓半島と交流をしていた。

環太平洋文明揺籃の地

 以上述べたように、北東アジアの地理上、地政学上の重要拠点である対馬が、今後の日本、韓半島、北東アジアの文化交流、経済発展、地域統合、ひいては「環太平洋新文明創造」の要所として浮上し、再び歴史の檜舞台に登場する日が到来するということは十分に予想される。

 このような未来社会の姿を見据えて、この地域に「日韓トンネル」が開通すれば、この地域がどのようになるであろうか。日韓トンネルと国際ハイウェイにより、北東アジア地域(海域も含む)一帯に、間違いなく、北東アジアの交通の「大動脈」が形成され、高規格道路のネットワークが構築され、広域経済圏が出来上がり、国境のない「北東アジア共同体」が形成されていくであろう。

 その時には対馬を中心としたこの一帯が、北東アジアの文化交流の中心的地域となり、新しい文明、環太平洋新文明創造の中心地となっていくであろう。

(『友情新聞』2013年1月1日号より)

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 次回は、「対馬に来れば北東アジアが見える」をお届けします。


◆『平和の大道 ―国際ハイウェイ・日韓トンネル―』を書籍でご覧になりたいかたはコチラへ(韓国語版もあります)


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