歴史と世界の中の日本人
第21回 岡倉天心
100年後の先見を持つグローバルな日本人

(YFWP『NEW YOUTH』177号[2015年3月号]より)

 歴史の中で世界を舞台に輝きを放って生きた日本人が数多くいます。知られざる彼らの足跡を学ぶと、日本人の底力が見えてくる!
 「歴史と世界の中の日本人」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。

 明治時代の思想家、美術運動の指導者として、「近代美術の父」と称されるのが、岡倉天心(18621913)である。

▲岡倉天心(ウィキペディアより)

 天心は、『東洋の思想』『茶の本』など、東洋の美、日本の文化を英文で著し、世界の人々の目を日本に向けさせた明治を代表する人物の一人である。
 天心は日本美術の復興に尽力し、「日本はアジア文明の博物館である」と主張した。

 天心の生きた時代は脱亜入欧の時代であった。明治の日本は近代化、すなわち欧米化、西洋化の道を突き進んでいた。
 しかし天心は近代化の行き詰まりを予見し、すでに100年後の思想を先取りしていた。
 やがて世界の物質文化は限界にぶつかっていく。それを乗り越えていくためには東洋、アジアの文化を復活させなければならない、と。

 天心は英語に堪能であった。父は福井藩士であったが、藩より横浜で貿易商店を任せられていた。店を訪れる外国人を通じて天心は幼少の頃から英語に慣れ親しんでいた。
 6歳の時には英語塾に学び、7歳からは漢籍を学ぶ一方で洋学校に学んでいる。

 アジアに対する天心の目が開かれるきっかけとなったのは、東京大学文学部在学中、17歳の時に文学部の教師として赴任してきたアーネスト・フェノロサとの出会いであった。
 天心はフェノロサの通訳を務めた。

 当時は、西洋文化を謳歌(おうか)する「文明開化」の風潮にあって、日本古来の美術は見向きもされない状況であったが、フェノロサは東洋美術や仏教に興味を抱いており、日本の絵画や工芸品、仏像に強い興味を抱いて、収集や調査を始めた。

 天心は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)開校に尽力し、第2代校長も務めたが、東洋の美術に人類の理想を見いだそうとする天心の考えは日本では受け入れられなかった。

 天心は日本文化に対する考え方を海外で発信するようになる。それが既述の英文による著作の誕生へとつながっていく。

 岡倉天心はバイリンガルな人物であった。
 それは言語の面だけではない。その思想においてバイリンガルであり、日本を外から見る視点を持ち、世界史の文脈の中で日本を捉えていたのだ。

 まさに、天心は真にグローバルな日本人であったのである。

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 次回は、「近代東西の合流地点に立つ偉人」をお届けします。