歴史と世界の中の日本人
第7回 浅川 巧
韓国人の心の中に生きた日本人

(YFWP『NEW YOUTH』159号[2013年9月号]より)

 歴史の中で世界を舞台に輝きを放って生きた日本人が数多くいます。知られざる彼らの足跡を学ぶと、日本人の底力が見えてくる!
 「歴史と世界の中の日本人」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。

 韓国は日本にとって最も近い隣国であるが、互いに理解し、歩み寄ることは簡単ではない。
 しかし、その突破口を開くヒントを与えてくれる人物がいる。
 韓国の首都ソウル郊外の共同墓地に眠る浅川巧(あさかわ・たくみ/18911931)という一人の林業技手だ。

▲浅川巧

 彼が生きた時代の朝鮮半島は、日本による植民地統治下にあって、朝鮮の人々への蔑視や差別が当然のように行われていたが、巧は朝鮮の役に立ちたいと思い、自らの意志で朝鮮の国と文化と人々を理解しようとし、そして、心から愛した。

 浅川巧は山梨県に生まれた。植物を育てることが好きだった巧は山梨県立農林学校に進学。兄・伯教の影響でキリスト教の信仰を持つようになる。
 1913年、朝鮮陶磁器の美しさに注目していた兄が朝鮮へ渡ると、巧も翌年、朝鮮に渡って朝鮮総督府農商工部山林課林業試験所の雇員として働き始めた。

 植民統治下にあっても、同じ人間として、朝鮮の人たちと真の友として関わりたいと考えた巧は、朝鮮語を習って流暢(りゅうちょう)に話し、普段は朝鮮の衣装を身に着け、朝鮮の家屋に住み、朝鮮の酒を飲むなど、進んで朝鮮の社会に入っていった。

 当時の朝鮮の山は、乱伐や盗伐などによって荒廃していた。巧はそんな朝鮮の山を緑化することを夢に見、実際に多大な貢献を果たした。

 巧は林業技手として働く傍ら、朝鮮に古くから伝わる民芸品の美に引かれ、その研究にも没頭した。
 壊されていく朝鮮文化の保存の必要性を強く感じた巧は、兄や柳宗悦と共に、朝鮮民族のための美術館を設立しようと奔走し、1924年、「朝鮮民族美術館」を開館させた。

 巧は急性肺炎によって40歳の若さでその生涯を閉じたが、誰よりも朝鮮の人々を愛し、また朝鮮の人々に愛された。

 巧の生き方は、多くの韓国の人々に語り継がれている。
 巧の墓の碑文には、ハングルで「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれている。

 巧の生き方の中に日韓が歩み寄るための鍵がある。

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 次回は、「開国日本から世界に羽ばたいた医学者」をお届けします。