愛の知恵袋 161
感染症治療に命を捧げた日本人(下)

(APTF『真の家庭』282号[2022年4月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

伝染病患者の救済に心血を注ぐ

 肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)の仕事は伝染病医療センターだけでは終わらなかった。そこから5㎞離れたドイツ人難民収容所では発疹チフスだけでなくマラリアや赤痢まで発生していた。

 看護婦のフィドラーさんが肥沼に同行して、初めてそこに行った時のことを述懐している。「その収容所では暗い部屋の中で異臭を放ち、栄養失調でやせこけた患者たちが呻き声をあげていました。地獄さながらのあまりにも凄惨な現場に、私は入り口で足がすくんで動けませんでした。すると肥沼先生は『フィドラー、君の使命感は?』と言って躊躇することなく入って行き、症状のひどい患者から診察を始めました。患者の手を握って励まし、治療をしていくのです。身の危険も顧みず、無私無欲で治療に奮闘する先生の姿を見て衝撃を受け、気の遠くなるような感動に打たれました」。

 当時のドイツ人は日本人に対して、“勤勉で武士道精神を持つ勇敢な民族”という印象を持っていたが、肥沼の姿はまさしく勇敢なサムライそのものに見えたという。

 肥沼は医薬品を調達するために各地に奔走した。馬車の手綱を引いてベルリンまで行って治療機器や医薬品を調達した。ソ連軍の野戦病院には寿司詰めの汽車で2時間、そこから徒歩で2日間行き、何度断られても頼み込んで薬を手に入れてきた。また、患者たちの食料を調達するためにはバルト海沿岸の街まで出かけて行った。

 更に、週2回は外来患者も診察し、隣村まで往診にも行っていた。農民が苦境にあることを知っていた肥沼は治療費のことは一切口にしなかった。そんな肥沼に感謝して医療センターには近隣の農民たちが農作物を届けてくれたという。

 こうして、大人から子供まで数百人の人が命を救われたのである。

白衣のサムライ、異郷に死す

 不眠不休のため自宅に帰ると服のままソファーに倒れ込むという日が続いたが、過労で衰弱した肥沼は、自身も発疹チフスに感染し倒れてしまった。自宅療養しながらも看護婦に仕事の指示を出していたが、遂に、悪寒と高熱で起き上がれなくなった。

 看護婦たちがやってきて「先生、使って下さい!」と薬を差し出したが、「早く患者さんのもとに戻りなさい。その貴重な薬は他の患者のために使いなさい」と言って、肥沼はチフスの治療薬や注射を断ったという。

 昭和2137日、症状は更に悪化していた。その日が誕生日だった家政婦のエンゲルさんに小さな声で「誕生日おめでとう。誕生祝いをやれずにごめんね」と言った。そして、意識の遠のく中で最後にひと言、「桜が見たい」とつぶやいた。

 翌38日、午後1時。肥沼はシュナイダー夫人、家政婦のエンゲル、病院の看護婦たちに看取られて息を引き取った。享年37であった。

 遺体は粗末な棺に納められ、冷たい小雨の降る中を市民たちに囲まれて、フリート広場の墓地まで運ばれた。ヴリーツェンはソ連支配下の東ドイツになったため秘密警察の監視があって、日本人を公に称賛することができなかった。しかし、市民は彼のことを忘れず、小さな墓を建て四季を通して花を絶やさなかったという。

 若き日の肥沼が心から尊敬していたアインシュタインの言葉がよみがえる。

 ”誰かのために生きてこそ、人生には価値がある”

43年目の真実と日独親善交流の始まり

 一方日本では、終戦直前から肥沼信次は消息不明となり、戦後、家族は関係各所に問い合わせたが全く分からず、1960年になって赤十字から死亡通知だけが届いた。しかし、どこでどうして死んだのかも全く不明のままであった。

 彼の死から43年後の1989年、ベルリンの壁が崩壊し東西ドイツが統一された。ヴリーツェンでは郷土史家のシュモーク博士が住民の証言を集め彼の功績を公表した。新聞に掲載され身元捜しが始まったが、彼の経歴は全く分からなかった。

 フンボルト研究所長のピアマン博士が桃山学院大学の村田教授に調査を依頼し、最後の手段として朝日新聞の尋ね人欄に掲載したところ、やっと弟の肥沼栄治氏と連絡が取れた。ヴリーツェン市民は初めて肥沼の経歴を知ることになったのである。

 1994年(平成6)、ヴリーツェン市議会は満場一致で彼を名誉市民に推戴した。同年、栄治氏がドイツに渡り兄の墓に花を捧げた。兄の最後の言葉を知った栄治氏は帰国後100本の桜の苗木を送り、一本は肥沼の墓に、残りは市内各所に植えられた。

 同市は市役所前に肥沼信次の記念碑を建て、市役所には肥沼ルームという資料館を設けて彼の業績を示す資料を展示した。また、肥沼の墓も建て替え、墓石に「伝染病撲滅のために自らの命を捧げた」と刻み、学校の授業でも彼のことを教え続けている。

 八王子市とヴリーツェン市は友好交流協定を結び親善交流が始まった。毎年、命日の3月にはドイツとポーランドの少年少女の柔道大会「肥沼記念杯」が開催され、試合の前に数百人の参加者が墓前に整列し、花を捧げて恩人の冥福を祈っている。

 ”一粒の麦、地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。死なば多くの実を結ぶべし”(新約聖書ヨハネ伝1224

 肥沼信次の蒔いた真の愛の種が、今、芽を出し、実を結ぼうとしている……。

(参考文献:舘澤貢次著「大戦秘史リーツェンの桜」ぱる出版、国際留学生協会編・向学新聞)

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