日本人のこころ 60
『吾妻鏡』(下)

(APTF『真の家庭』281号[20223月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

源頼朝と北条義時
 今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公は北条義時です。源頼朝の陰に隠れ、今までドラマの主役になることはあまりありませんでした。頼朝との年齢差は16歳。父時政が源氏の貴種である頼朝を応援し、姉政子が正室になったことで、頼朝の側近に取り立てられます。

 『吾妻鏡』には義時の忠節を示すエピソードがあります。1182年、頼朝が妻の目を盗んで亀の前という女性をかこっていると、継母(時政の後妻)の牧の方から知らされた政子は激怒し、牧の方の父・牧宗親に命じてその家を壊したのです。亀の前は頼朝が流人暮らしの頃から仕えていた女性で、美しく柔和な性格が気に入られ、政子が万寿(源頼家)を妊娠中に、ひそかに鎌倉に呼び寄せられていました。

 政子の所業に怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髷(まげ)を切ってしまいます。当時の武士にとって、髷を切られることは耐えられない恥辱で、宗親はそのまま逃亡します。これを知った時政は、一族を率いて伊豆国へ立ち退いてしまう騒動に発展しました。このとき義時は父に従わないで鎌倉に留まり、頼朝を感激させます。

 その後の奥州・藤原氏の征伐や大軍を率いた頼朝の上洛にも義時は付き従い、鎌倉幕府の成立に貢献しました。

 1199年の正月、53歳の頼朝は落馬がもとで亡くなります。それについては暗殺説もあるので、ドラマでどう描かれるのか見どころの一つです。後を継いだ嫡男の頼家はやや粗暴で、心配した御家人たちは有力な13人を選び、御家人らの訴訟については合議することを申し合わせました。北条氏からは時政と義時の二人が選ばれ、37歳の義時は最年少でした。

 御家人の最有力は頼朝の挙兵を最初に支持した北条氏で、それに次ぐのが京都時代から頼朝の乳母を出し、配流時代を支えてきた比企氏です。家格では比企氏がはるかに上で、地方豪族にすぎなかった北条氏の最大のライバルでした。

 1203年、将軍頼家が重病になると、万一の事態に備え、頼家の権限を嫡子の一幡(いちまん)と弟の千幡(せんまん・実朝)に分割することで、北条氏と比企氏は手打ちします。ところが、時政は比企能員(よしかず)をだまし討ちし、政子の命で軍勢が一幡の館に立てこもった比企一族を襲い、滅ぼしたのです。

 実朝が将軍に就くと、専横を強めた時政は政所(まんどころ)別当に就任し、幕政を掌握するようになります。時政は比企氏に次いで武蔵の有力御家人・畠山重忠を、謀反の濡れ衣を着せ、義時に討ち果たさせました。

 しかし、これを機に時政の横暴は御家人らの反感を買うようになり、義時と政子は時政と距離を置くようになります。当時、時政の嫡男は牧の方との間に生まれた政範で、時政は将軍実朝を廃し、娘婿の平賀朝雅(ともまさ)を擁立しようとしていました。政子は実朝を義時の館にかくまい、陰謀を理由に時政と牧の方を追放します。

 時政を追放すると、義時が北条氏の惣領になり、政所別当として大江広元らと幕政を取り仕切るようになります。実朝は成長し、後鳥羽上皇の覚えもよく、京と鎌倉の関係は良好になります。ところが、右大臣になった実朝が、鶴岡八幡宮で拝賀の儀を行った帰り、頼家の遺児で同宮別当になっていた公暁(くぎょう)に暗殺されてしまったのです。

▲実朝暗殺が起きた鶴岡八幡宮

承久の乱で幕府が勝利
 実朝の死によって朝幕関係は暗転し、後鳥羽上皇は義時追討に動き出します。武にも通じていた上皇は、内裏を警固する武士たちを取り込み、鎌倉に対抗するように仕向けたのです。関東武士にとっても朝廷の権威は大きく、上皇は官位を授けることで武士を味方につけ、鎌倉から離反させました。

 1221年、武将たちへの工作に手ごたえを感じた後鳥羽上皇は、ついに義時追討の命令を出し、承久(じょうきゅう)の乱が始まります。最大のピンチに見舞われた義時の課題は、御家人たちをまとめられるかどうかです。とりわけ京にいる一族が上皇側に付いた一族は、本気で戦おうとしないかもしれません。上皇が狙ったのは、そうした分断です。

 この時、力を発揮したのが政子でした。朝廷軍が京を発ったことを聞いた御家人らは、軍議で箱根で迎え撃とうとします。それでは朝廷軍の勢いに負けてしまうと考えた政子は、歴史に残る名演説をしました。

 「皆、心を一つにしてお聞きなさい。これは私の最後のことばです。源頼朝公が朝敵の平家を征伐し、鎌倉幕府を草創して以降、官位といい、俸禄といい、その恩はすでに山より高く、海よりも深いのです。

 ところが今、逆臣の讒言によって、道義に反した天子の命令がくだされた。名を惜しむ者は、早く逆臣の藤原秀康・三浦胤義らを討ち取り、第三代将軍の眠る鎌倉を守りなさい。ただし、院側へ行きたい者は、申しでるとよい」

 政子の演説で頼朝から受けた恩を思い起こした御家人たちは、涙を流して京に攻め上ることを決意し、義時の嫡男・泰時を先頭に大軍で鎌倉を発します。そして、瀬田の唐橋や宇治川での合戦に勝ち、朝廷軍を圧倒しました。

 乱に大勝した義時は、ついに後鳥羽上皇を隠岐に流した上に、幕府に反抗した公家たちの領地を取り上げ、平家の旧領地も関東の武士たちに分け与え、西日本にも関東の武士たちを地頭として派遣しました。こうして、鎌倉幕府が全国を支配する体制が固まったのです。

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