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信仰は火と燃えて 17
世界に広がる救いの輪

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 教会員に「松本ママ」と慕われ、烈火のような信仰を貫いた松本道子さん(19162003)の、命を懸けてみ旨の道を歩まれた熱き生きざまがつづられた奮戦記です。

松本 道子・著

(光言社・刊『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)

世界に広がる救いの輪
 「統一原理」を知ってから十数年、疲れを知らず、あらゆる困難を信仰で乗り切ってきましたが、197316日水垢離(みずごり)のあとでとうとう倒れてしまいました。無理を重ねてきたので疲れがたまっていたこともありますが、私は遺伝的に心臓が弱かったのです。それは、倒れるまで自分でも知らずにいたことでした。

 若いころに、肺を病んで医者から6カ月の安静を言い渡された時、「統一原理」を聴いて“これで死ぬなら死んでもいい”という気持ちで、病気を省みず神様のために働いてきました。ところが、無理をしたら死ぬと言われたにもかかわらず、十何年たっても死にもせず生きているものですから、それ以来、少々の病気は信仰で克服できると確信してきました。

 ですから、体がだるく頭ががんがん痛くても、病院に行くなど思いもつかないことだったのです。そして、病気になるのは自分がたるんでいるからだ、自分が怠けているんだと自分自身を責め、痛がっている肉体の訴えを否定して、ただひたすら心を神様の方へ引っ張っていこうとしていました。けれども実際は、血圧が上がっているために頭痛やだるさが出ていたのです。それを知らず、寒い時に水垢離などしたものですから、脳血栓(のうけっせん)になって倒れてしまったのでした。

 手が上がらなくなり、「乱れた格好で倒れるのはいやですから、ガウンを着せて縛ってください」と言ったきり意識を失ってしまいました。板橋病院に運ばれ、脊髄(せきずい)に注射をしてやっと意識が戻ったのですが、もしこの時意識が戻らなかったらもうだめだったそうです。

 退院してからも左の足はしびれていました。ちょうどそのころ、アメリカにずっとおられた文先生が、韓国に帰られる途中、日本に立ち寄られました。そして「今まで無理してきたからね」と言って、一緒に韓国に連れていって一室を与えてくださり、先生の食事係の人が私のために、野菜食を作って食事療法をしてくれたのです。そうして約半年間先生のそばで治療して日本に帰ってきました。こうして食事療法と信仰と天の愛によって、左足をひきずりながらも何とか動けるようになったのです。

 1974年アメリカのマディソン・スクェア・ガーデンで、先生の大講演会が開かれました。この時にはまだびっこをひいていましたが、私はどうしても先生の講演を聴きに行きたくて、「なんとかしてほしい」と懇願すると、本部の人たちが奔走して、春日千鶴子さんを付き添いにつけてアメリカに行くことができるようにしてくれたのです。

▲アメリカへ

 当日は、2万人もの人が入りきれずに場外にあふれ、大変な混雑でした。その中で、二列目のスペシャル席で西川先生と並んで座らせていただき、胸をわくわくさせて文先生が出てこられるのを待っていました。瞳(ひとみ)をじっとこらして先生の顔を見上げると、その目にはなんと涙があふれているではありませんか。その涙を見ると、これまで先生が歩んでこられた険しい涙の道が、走馬燈のように浮かんできました。

 16歳のときに天の啓示を受けてから、生きて十字架の道を歩いてこられたのです。涙と汗と血を流し、神様のみ旨のために歩んでこられた先生は、韓国、日本に土台を築き、ついに現代のローマであるアメリカヘと渡られたのです。そして、苦労に苦労を重ねてアメリカの人々を伝道し、その土台の上でこの日、3万人の聴衆を前にして講演をするまでになったのでした。

 この大会は、50州を講演して回った最後の締めくくりとしての大会でした。

 韓国でお会いした先生は、本当にかわいそうなお父さんでした。ところが、今やアメリカまで来て、会場からあふれんばかりの聴衆を前にして、「キリスト教の新しい未来」というテーマで、堂々と講演をしているのです。この日を、天の父はどれほど待っておられたことでしょう。また誰よりも、先生御自身が待っていたこの日なのです。この喜びの日を迎え、天の父の喜びを感じて、感極まって涙を滝のように流しているのでした。

 講演会は大成功のうちに終了し、私の心は喜びに満ちていました。そして、“ああ、先生はこれからますますアメリカで活躍される。私も寝てなんかいられない!”とすぐ日本に帰国したのでした。

 1976年には、ヤンキー・スタジアムでさらに大規模な講演会が催されました。その時も参加しましたが、天のみ旨がアメリカでどんどん発展しているのを見て、私はうれしくて仕方ありませんでした。人に支えてもらわなければ歩くこともできない身でありながら、道を歩いているとうれしくて、自分が病気だなんて忘れてしまうほどでした。

 ヤンキー大会の時には、大変なハプニングがありました。昼まで天気が良かったのに、突然嵐のような雨が降ってきたのです。ヤンキー・スタジアムには屋根がありません。私はどうなることかと驚き、「天のお父様、この日をあなたは待っておられたのに、どうして雨を降らすのですか」と祈っていました。

 兄弟たちは雨の中で歌を歌い始めました。どうすることもできない状況の中で、大会の責任者である神山さんが「先生、だめです」と泣いて訴えると、先生は「そんなこと言うんじゃない」ととても怖い顔をされました。この時は、先生にとっても深刻なひとときだったのでしょう。

 ところが大会の開始時間が近づくと、嵐のような雨がうそのように晴れ上がり、星まで見えてきたのです。まるで奇跡を見ているようでした。こうしてヤンキー大会も5万人の人を集めて大成功のうちに終わり、その4カ月後には、ワシントン・モニュメントにおいて、なんと50万人の人を集めてフェスティバルが開かれたのでした。そこには世界中の人々が集まり、気絶せんばかりのすばらしさでした。

 イエス様はどんなにかローマにおいて、このような大会を開きたかったことでしょう。その恨みを晴らすかのように、先生は世界中の人々を前にして、神様の心情と願いを堂々と語られたのでした。この先生の力強い言葉は、人々を励まし希望を与えました。こうして多くの人々が復活していく姿を見ることは、私にとって限りない喜びでした。この喜びは私の体にいい影響を与え、血の循環も良くなって、目に見えて快復していきました。

 ところが、私はとても行動的な性格の人間なので、何か考えたり感じたりすると、すぐ行動に移さずにはいられません。それでつい無理をしてしまうのです。そこで、月に一度、私の体に合うという大陸の気候を求めて、ソウルに静養に行くことにしました。

 いつも限界ぎりぎりまで動いてしまい、全身が痛くても息絶え絶えに飛行機に乗るのですが、飛行機が金浦(キムポ)空港に降りるやいなや、金魚が汚れた水から清い水に移った時のように気持ちが良くなり、生き返った心地がするのです。そうして医者の言うとおりに食事療法をしながら、神様の願いに生きようとひたすら努力してきました。

 私は神様の命令がある時は、たいてい前もって分かります。ですから、いつでも備えをして待っています。そして、私は私なりに、自分の手腕、自分の方法で神様のみ旨をやっていきたいと思うのです。今私は六十五歳ですから社交伝道を心掛けています。伝道でも何でも若い人には絶対負けたくありませんし、いつでも模範を示していきたいと思います。

 今までの私の歩みを振り返ってみると、苦労も喜びもいろいろありましたが、天命に対してはどこまでも従順に、変わらない心情で歩んできました。

 長い信仰生活の間には、人間ですから強い時もあれば、調子の悪い時、たるむ時もあります。必ず強弱があるはずです。一番大切なことは、初めから終わりまで変わらない心情です。

 変わらない心情をもっていれば、絶対にこの道から外れることはありません。いえ、できないのです。天のお父様の摂理や悲しい心情をこの心と体で知ってしまった以上、どうしてこの道から離れることができるでしょうか。死んでも離れることはできません。たとえ体が動かなくなっても、祈りだけはしよう、こういう心情できょうまで歩んできました。

 19804月、先生が還暦を迎えられたので私は独りでアメリカに行ってきました。先生はとても喜んでくださり、ぐっすり休んで行きなさいと言ってくださいました。その後ソウルでお会いした時にも同じことを言われました。けれども私は、3日休んだら10日ぐらい休んだような、1週間休んだら1カ月休んだような気がして、兄弟たちが一生懸命働いているのに、私がこんなことをしていていいんだろうか、救いを求めている人がたくさんいるのに……という気持ちになってくるのです。

 文先生を見てください。先生は天啓を受けてから還暦を迎えるきょうまで、一片の個人的楽しみもなく、食べることも眠ることもしないで、天より与えられた使命をいかに成そうかと心を砕き、私たちの救いのために血と汗と涙を流してこられたのです。その天の願いを完成するまでは、60歳になっても休むことができないのです。鉄の意志力をもって、今もなお先頭に立って働き続けているのです。

 罪汚れた私たちを「統一原理」によって復活させ、手をとり足をとって導き新しく生まれ変わらせてくださった先生。日本で伝道された青年たちが、アメリカをはじめ世界の各地で活躍している姿を見る時、神の国への希望がわいてくるのです。

 これからは若い皆さんの時代です。天の願いに向かってまっすぐ進んでいる先生の道を自分のものとして、一歩一歩着実に歩いていこうではありませんか。先生の御恩に報いるために、私も自分の責任は最後まで果たして死にたいという意気込みで、力の限りを尽くしています。

(完)

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 次回は、「私の松本道子さん(西川勝)」をお届けします。


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