神様はいつも見ている 4
~小説・K氏の心霊体験記~

徳永 誠

 小説・K氏の心霊体験記「神様はいつも見ている」をお届けします(毎週火曜日22時配信予定)。
 世界平和統一家庭連合の教会員、K氏の心霊体験を小説化したものです。一部事実に基づいていますが、フィクションとしてお楽しみください。同小説は、主人公K氏の一人称で描かれています。

第1部 霊界が見えるまで
4. 父親の交通事故

 私が5歳の時だった。

 霊が見えるようになった全てのきっかけは、父親の交通事故からだったと言っていい。

 父親の事故がなかったら、宗教や霊的な世界に対する関心も持たず一生を過ごしていただろう。
 その意味では、父の事故は家族だけではなく、私自身の人生をも決定する事件だった。

 それまでわが家はごく普通の家族だった。特に信仰心が篤(あつ)かったということもなければ、宗教に関わりの深い家系でもなかった。当時の日本の各地で暮らしていた人々と同様、ごく平均的な日本人の家庭だった。

 私が住んでいたのは大阪府のI市で、辺りには田園風景が広がり、家も少なく、どこにでも見られる日本の村落といった感じだった。皆同じように平屋の家に暮らし、二階建ての家はまだ少なかった。

 古代から開けていた地方だったが、特産物もなく、稲作を中心に一生懸命日々を生き、皆ぎりぎりの生活を送っていた。

 私の両親は戦後まもなく若くして結婚した。戦後の混乱の時代は、どこの家も結婚を早めにすることが多かった。

 その背景の一つには、男性は戦争に兵士として出征して戦死したり病死したり、けがをして帰還したりと、男性の数が払底(ふってい)していたことがある。
 男性は買い手市場で、女性の方が相手を探すのが困難だったのである。

 もう一つは、日本が第二次世界大戦に敗戦し、占領軍としての米軍がやって来るというので、若い女性はその占領軍に暴行されたり誘拐されたりするのではないか、といううわさが広がったからだった。

 そのため、当時の日本人の親は何よりも未婚の娘を早く結婚させようと焦ったのである。
 にわかに若い男女の結婚ブームが全国的に訪れたが、それはI市の郊外の集落に住んでいた父と母の一族も変わらなかった。

 後に、「相手は男であれば誰でもよかった」と母は両親から聞かされたという。
 そのような背景の中で父と母は見合いをし、そして慌ただしく結婚したのだった。

 私には7歳上の兄と2歳上の姉がいる。

 その姉が母に「最初にお父さんと会った時、どう思ったの?」と尋ねたことがあった。

 「それはねえ…」

 「結婚というのはね、なるようになるものなのよ」と、母が最初の言葉を濁しながら答えていたのを今も覚えている。

 母の家は豪農だった。母は親の愛情を一身に受けて大事に育てられたが、戦争とその後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)を中心とした占領軍による土地改革で家は没落した。

 戦後は占領政策によって経済を牛耳っていた大企業の財閥の解体や大土地所有者の解体が推し進められると同時に、土地改革が断行され、豪農が小作人に土地を分けていかなければならなくなった。

 父方の先祖についてはよく覚えていない。
 それは私だけではなく、当時の日本人全体が先祖に関心を持つような雰囲気ではなかったからだが、水吞百姓(みずのみびゃくしょう)といわれるような貧しい家だったのではないかと私は想像している。

 結婚後、母は慣れない貧乏生活を送ったようだが、この時代は誰もが自分の生活を守るために苦労を強いられる時代だった。

 何不自由なく育った女性であったが、母もまた、家事に追われ、子育てに明け暮れ、舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)に仕える毎日を送ったのである。

 お嬢さん育ちとはいえ、生来からの負けん気や忍耐力があったので、母はどんなときでも歯を食いしばって乗り越えてきた。

 父は当時珍しかったオートバイを乗り回し、物流関係の荷運びの仕事をしていた。母は家事や子育てとともに父の仕事を手伝った。

 当時は、周りを見回しても、同じように生活するのが精いっぱいの家庭ばかりだった。私には自分が貧しいという意識はなかった。

 物はなかったが、子供たちは近くの神社や雑木林で遊び、山や川へ行ってはいつも仲間たちと一緒に楽しい時間を過ごしていた。

 そんなある日、父が交通事故で瀕死(ひんし)の重傷を負うという事件が起きたのだった。

(続く)

---

 次回は、「母に神が降りる」をお届けします。