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預言 34
主体思想

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金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

34 主体(チュチェ)思想

 1991年11月30日。

 北京(ペキン)空港は濃い霧に覆われていた。

 はるか遠く、オホーツク海から吹きつける冷たい風が、荒涼とした空港の滑走路の上でうなりを上げている。

 その合間を縫うように、古びた一機の飛行機が霧の中から姿を現し、スタートラインで止まった。

 「朝鮮民航215、スタンバイ」

 「オーケー。215、離陸を許可する」

 管制室の許可が下りると、朝鮮民航の旅客機は騒がしいエンジン音とともに滑走路を走り出し、空に向かって力強く飛び立った。

 「乗客の皆様、この飛行機は平壌(ピョンヤン)に向かう特別機、朝鮮民航215便です。偉大なる金日成(キム・イルソン)首領が領導される地上の楽園……」

 女性乗務員の案内放送に続き、顔立ちの整った若い男が近づいてきて、礼儀正しく挨拶をした。

 「文(ムン)総裁、私は機内の随行を担当する、外務省の職員です。文総裁の朝鮮民主主義人民共和国への訪問を心から歓迎いたします」

 どんよりと広がる灰色の雲を抜け、青い空へ飛び出した飛行機が、空中で大きく旋回した。

 進路が東に向けられると、人々の表情に興奮と期待の色が浮かんだ。

 特別機を準備することなどめったにない北朝鮮から破格の待遇を受け、平壌に入ろうとしている韓国人は、文鮮明(ムン・ソンミョン)総裁と韓鶴子(ハン・ハクチャ)女史をはじめ、ピーター・パク夫妻など、合計8人だった。

 浮き立つ心。しかしそれとは裏腹に、若干の不安もないとはいえなかった。

 それは自分たちが、宗教者として北朝鮮に入る最初の人間だったからだ。

 最低限の身の安全は保障されているとはいえ、宗教を認めていない地球上で最後の国、北朝鮮に入国するのは、必然的に不安を伴うことだった。

 予想もできないことが、いつどこで起きるか分からない。

 「平壌に行かなければならない」

 文総裁はソ連に行く前から、北朝鮮に行く計画を立てていた。

 しかし、自らが展開する超宗教運動、すなわち宗教間の和解を模索する運動に没入し、実際に文総裁が平壌行きの飛行機に乗ったのは、かなり後になってからのことだった。

 「文総裁、北京から平壌に行く正規路線は、海州(ヘジュ)上空を通過して平壌に向かうことになっていますが、この飛行機は特別に、新義州(シニジュ)から定州(チョンジュ)を通って、平壌に向かいます。定州が文総裁の故郷ということで、党中央から特別の配慮がございました」

 文総裁に対する北朝鮮当局の礼遇は格別のものだった。

 これまでどの国の首脳が訪問することになっても、特別機を出したことはなかった北朝鮮が、至れり尽くせりの手厚い待遇で文総裁をもてなしているのだ。

 実際のところ、文総裁の入国自体が、異例中の異例だった。

 彼はただの宗教家ではなく、国際勝共連合といった、共産主義を打倒しようとする団体を創設し、華々しく活躍している人物だ。

 最近では、共産主義に完全に逆行しているゴルバチョフの背後には彼がいる、といううわさまで、平壌駐在の外交官の間で流れるほどだった。

 「なんて顔だ。まるで死にに行くみたいじゃないか!」

 文総裁の率直な物言いに、ピーター・パクはどこか臆したような声で答えた。

 「北朝鮮当局が確実な身の安全を保障しなかったことが、気がかりなのです。『何があっても』という表現を入れることになっていたのに、途中で抜かれてしまいました。何か問題が起きることもある、と言われているように思えて、不安になります」

 「それは当然だろう。宗教を阿片(アヘン)と思っている奴(やつ)らだぞ? 我々が行って、『神様を信じましょう』なんて扇動でもしたら、その場で逮捕するのが当たり前だろう。それを他人事のように見物しているわけにはいかないじゃないか」

 「まるでご自身が北朝鮮当局の人間であるかのようにおっしゃいますね」

 「当たり前じゃないか。北朝鮮当局の人間であれば、誰だってそうするに決まっている。それを放っておくとすれば、私だって黙っていないだろうよ」

 一抹の不安を隠せない随行者とは違い、文総裁は少しも臆することなく、冗談なのか本気なのか分からない話を悠然と並べ立てた。

 「それにしても、あの言葉が抜かれたことが、非常に気になります。平壌に到着したら、いかなる場合であっても帰還に責任を持つ、という文章を入れるように強く要請します」

 「馬鹿者、そんなことするんじゃない。神を信じる者が、共産主義者に身の安全を保障してもらえないといっておろおろするのか? 最高の保障を、既に手にしているのに」

 「誰からですか?」

 「神からに決まっているだろう」

 文総裁の北朝鮮訪問の知らせを聞いた韓国、アメリカ、日本のメディアは驚愕(きょうがく)した。

 北朝鮮がなぜ勝共運動の総大将ともいえる彼を招待したのか、全く見当がつかなかったが、それでもメディアは同行取材をしようと、あらゆる努力を傾けた。

 しかし、北朝鮮当局は決して許可を出さなかった。

 身の安全の保障も曖昧で、メディアも同行しない状態で北朝鮮に入った文総裁一行だったが、平壌の順安(スナン)空港では大々的な歓迎を受けた。

 朝鮮海外同胞援護委員会の委員長である尹基福(ユン・ギボク)、政務院副総理である金達玄(キム・ダルヒョン)を筆頭に、党や政府の幹部数十名が出迎えてホテルまで同行し、盛大な晩餐(ばんさん)でもてなした。

 翌日、一行は大同江(テドンガン)や平壌近郊の名所旧跡を見て回り、その次の日、尹基福と金達玄をはじめとする北朝鮮の高官と会談の場を持った。

 万寿台(マンスデ)議事堂の会議室で、彼らは向かい合って座った。

 「あそこの兵士たちを退室させてください」

 氷のように冷たい表情で、実弾をたっぷりと装填(そうてん)したAK47小銃を手にして会談の場を見守っていた人民軍の兵士は、訪問団一人ひとりに射るような鋭い視線を固定させたまま、微動だにしなかった。

 「できません」

 「どうしてですか? 銃を手にしてにらませておきながら、一体どんな話をせよというのですか?」

 「そのような決まりですから、致し方ありません」

 一行はやむを得ず、兵士のにらみつける中、北朝鮮当局の者たちと経済および文化交流について話し合った。

 北朝鮮側は随時メモを受け取り、時には部屋の外に出ることもあった。

 尹基福や金達玄のような最高位の幹部に指示が出ているところから判断して、背後から指示をしているのは金正日(キム・ジョンイル)書記と思われた。

 北朝鮮側の発言に続き、ピーター・パクにマイクが渡されると、ピーター・パクは文総裁がどのような人物であり、今までいかなる業績を挙げてきたかを話し始めた。

 この場における自身の役割がどれほど重要かを知っていた彼は、渾身(こんしん)の力を振り絞って文総裁を証(あか)しした。実際に、それは素晴らしい演説だった。

 しかし、彼が席に着くや否や、険しい表情をしていた文総裁が突然立ち上がった。

 普通の人間なら、誰かが自分のことを褒めたたえれば気取った態度を取ったりするものだが、彼は何が気に食わないのか、立ち上がるやピーター・パクを一喝した。

 「一言、言わせてもらおう」

 その場に座っていた全員の視線が文総裁に向けられると、彼は何の挨拶も前置きもなく、いきなり言い放った。

 「皆さん、共産主義ではいけません」

 文総裁の一言に、会談の場は瞬く間に凍りついた。

 「主体思想はでたらめです。そうやって狭い枠の中に閉じこもったまま生きていれば、やがて何もかも縮こまり、滅びてしまいます。一日も早く主体思想を捨てて、世界と交流し、開放に踏み切る必要があります。そうしなければ、北の民はみな、飢えて死んでしまいます!」

 文総裁の言葉に、北朝鮮当局者の顔がみるみる土色に変わった。

 いや、北朝鮮側だけではない。

 文総裁一行の面々も一人残らず土気色に染まり、銃を持ったままにらみつける兵士たちをすばやく見やった。

 ガチャリ!

 安全装置を外す音がした。

 誰もがこの鋭い音に平常心を失いかけていたが、文総裁は気に留める様子もなく、さらに大きな声で、座っている北朝鮮の幹部たちを責め立てた。

 「尹委員長、しっかりしてください。指導者の側近なら、指導者が世界を正しく見つめ、国民の苦痛から目を逸(そ)らさないように導いてください。あなたはそれで政治を行い、国を率いているつもりなのですか? 今この時代に国を閉ざし、主体思想を云々(うんぬん)するなど、時代錯誤を通り越して詐欺、犯罪行為ですよ。 私の言葉は間違っていますか? 答えてください、尹委員長!」

 まさに青天の霹靂(へきれき)というべき発言に、尹基福も金達玄も言葉を失ってしまった。

 ガチャリ!

 ガチャリ!

 文総裁をにらみつけていた兵士たちが立て続けに安全装置を外したが、文総裁の叱咤(しった)は一向に止まる気配を見せなかった。

 「そのようなことをしていて、よくも統一なんて大それたことが言えるものですね。統一は私に任せなさい。3年以内に韓半島を統一してみせましょう」

 警備兵はすぐにでも発せられるであろう尹基福や金達玄ら党幹部の指示に耳を澄ませつつ、文総裁をはじめ、8人の訪問団に銃口を向けた。

 「ああ!」

 ピーター・パクの口からうめき声が漏れた。

 もはやすべてが終わった。

 彼の脳裏に、身の安全を完璧に保障することはできない、と北京で頑として譲らなかった北朝鮮当局者の声が響いた。

 “平壌では誹謗(ひぼう)中傷は一切許されません。我々がなぜ身の安全を絶対的に保障しないのかというと、その点を危惧(きぐ)しているからです。もしほんのわずかでもこれに違反した場合、皆さんは拘束され、裁判にかけられて収容所送りになることを忘れないでください。極端な場合は、その場で射殺ということもあり得ます。北において、金日成主席と金正日書記、それに主体思想について爪の先ほどでも批判する者は、問答無用で処理されます。報告は後からすればよいのです。殺しても罪にはならず、むしろ勲章が与えられます”

 今や人民軍の兵士は一人残らず安全装置を外していた。

 彼らのうち一人でも、引き金に掛けている指に力を込めれば……。

 その結果は、言うまでもないことだった。

 兵士たちは尹基福も金達玄、そのほかの誰からでもいいから、指示が下りるのを待っていたが、党幹部らはこの驚天動地の事態に、どんな指示を出せばいいのか全く見当がつかなかった。

 だだっ広い会議室に重い沈黙が流れた。

 引き金に指を掛け、銃口の先を一行に向けている兵士たちと、取るべき行動が分からない党幹部。

 不安と恐怖から来る興奮でパニックを起こしかけている文総裁の随行員たち。一行の中には、体を震わせながら目をつぶり、祈祷する者もいた。

 しかし、文総裁は口元に微笑をたたえたまま、正面の金日成主席の写真だけを見つめていた。

 まるで「これを聞くべき人間はあなただ」とでもいうかのように。

 実際この瞬間、金日成主席は現場からの報告を受けていた。

 現場の状況を聞いた参謀たちは即刻射殺すべきだと超強硬姿勢の発言を繰り返したのだが、独断で決定できる問題ではなかったため、直ちに金主席のもとに報告が届いたのだった。

 「ハハハハ! ハハハハ!」

 金主席は録音テープを聞いた後、突然天井を見上げたかと思うと、世界が吹き飛ぶと思われるほどの大声で笑った。

 「こいつは怪物だな、怪物! ハハハハ!」

 「今すぐ始末しますか? それとも一旦取り押さえて、拷問にかけますか?」

 そう尋ねられ、金日成主席はようやく笑いを鎮めた。

 そして、突拍子もないことを言い出した。

 「よし、この怪物と会うぞ」

 「……お言葉ですが、あの老いぼれは数十人の前で共産主義をやめろ、主体思想はでたらめだ、マルクス主義はいんちきだなどと言っています。その場で殺されるようなことばかりをあえて言ったのです。あの老いぼれをそのまま生かしておくなど、共和国のいい恥さらしになります。人民にも悪影響を及ぼします」

 「お前たちの手に負える人物ではない。私に任せろ。それから、お前たちは笑顔で、腹の据わったところを見せろ。軽々しい対応をして、全世界の前で赤っ恥をかく気か!」

 金主席の言葉には誰であれ、逆らうわけにはいかなかった。

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 次回は、「巨人を持ち上げた巨人」をお届けします。


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