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預言 24
「17年10月」

 アプリで読む光言社書籍シリーズ、「小説『預言』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。

金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

24「17年10月」

 智敏(ジミン)は一週間、講義に出席せずに、自室の机の前に座り続けた。

 彼は今までの人生で起こったあらゆる出来事を振り返り、そこで出会った人々を思い起こした。これからの人生についても、思いを馳(は)せた。

 荒(すさ)んだ人生だった。

 喜びと共に甦(よみがえ)る過去の記憶も、来るべき明るい未来もなかった。

 絢智(ジヒョン)、ソフィア、あとはせいぜい、ケンシントン夫妻と文(ムン)総裁夫妻。彼に良くしてくれたのは、それぐらいだった。

 生きる目標といえば、オシポーヴィチを撃つことしかなかった。

 智敏はすべてを整理した。自分が彼らにしてあげられることは、すべてしてから行こう。智絢とケンシントン夫妻のために、オシポーヴィチを撃つ。

 それはもしかしたら、文総裁夫妻のためにもなるかもしれない。そしてソフィアのためには、彼女のためには……。してやれることは何もなかった。ソ連の外に逃がす術(すべ)もない。彼女を幸せにしてあげられる道はすべて閉ざされていた。

 「一目会うだけ」

 一目会って、彼女の不幸から目を逸(そ)らすことなく、彼女を見つめて赦(ゆる)しを請う。

 それが彼にできるすべてだった。もしその時に彼女が望むものがあれば、それが何であったとしても叶(かな)えてやろう。智敏はそう固く決意してから、ペンを取った。

 最後に手紙を書いておきたかった。何でもいいから、自分の生きた痕跡を残しておきたかった。最初の行で、受取人の名前を誰にするかしばらく悩んだ彼は、文総裁の名前を書き記した。

 先生、誰からも蔑まれるだけだった俺のことを祖国と呼び、抱きしめてくれた意図はどこにあったのでしょうか?

 彼は次の文章を続けることができなかった。

 もしかしたら自分は、文総裁の前を束の間通りすぎただけの、取るに足らない存在なのかもしれない。文総裁と共にソ連と闘う人々は、実際に見た人物だけでも10人を超えていた。

 おそらく数百、数千にはなるだろう。それなのに、俺なんかが長々と手紙を書こうとするなど、何を思い上がっているのだ。そう考えて智敏はペンを下ろした。しかし、手紙は封筒に入れた。理由は分からなかったが、ただ、送りたかった。

 智敏は再び講義に顔を出し始めた。彼には、オシポーヴィチを撃つことのほかに、もう一つの目的ができていた。

 ソフィアに会うこと。どこにいたとしても捜し出して、一目会いたい。ひょっとしたらそれは、オシポーヴィチを捜すよりもさらに難しいことかもしれなかった。そのどちらも、長い時間をかけて慎重に行わなければならないことだった。

 彼は以前よりもさらに注意深く行動した。講義にもこれ以上ないくらい真面目に臨み、文学科の建物にも近づかなかった。

 「セルゲイ!」

 智敏は友人付き合いを始めた。彼が特に意識して近づいたのは、父親がモスクワの共産党の書記をしている、同じ学科のセルゲイだった。

 ソ連に入る際に、文総裁は十分な資金を援助してくれた。智敏はセルゲイと親しくなるためにその金をつぎ込んだ。

 「セルゲイ、もうやってられない」

 「どうした、ジミー?」

 「秘密を守れるか?」

 「もちろんさ!」

 「これ以上、このくそったれのラムなんか飲んでられるか! いくら共産主義だからって、たまには金を使いたい時があるだろう? ベルーガみたいな高級ウオッカを売ってる所はないのか?」

 「ベルーガを?」

 「そうさ。頼むよ、俺にベルーガを飲ませてくれ」

 「よし、俺に任せろ」

 こうして交遊が始まり、いくらも経(た)たないうちに、セルゲイと智敏は腹を割って話す仲になった。最高級のベルーガとキャビアを気の向くままに飲み食いしながら、二人は固い絆(きずな)を育んでいった。

 ある日、智敏はセルゲイに誘われ、モスクワ郊外にあるサウナに向かった。ソ連の上流層は、抑圧と監視が日常化している一般の人々には想像もできないような、自由と沢贅(ぜいたく)をこっそりと享受していた。

 「今日は俺のおごりだ」

 森の中にある丸太小屋のドアを開けて、智敏は驚いた。

 そこには若い女が座っており、二人を見るとうれしそうに立ち上がって、彼らに近寄ってきた。驚く智敏に、セルゲイは何でもないように言った。「ロシアのサウナには女がいないとな」

 その理由は、智敏の予想とは少し違うものだった。

 女たちは、丸太小屋の中で煙突に向かって燃え上がる炎に、水で濡(ぬ)らしたシラカバの葉の付いた枝を当てた後、それで床にうつ伏せになっている二人を叩(たた)いてくれた。

 智敏は最初こそ何かの冗談かと思ったが、すぐにこれまで味わったことのない爽快さを感じ、身を任せた。

 「おお、これがサウナなのか?」

 「そうさ、だからシラカバの枝で叩いてくれる女が必要ってわけさ」

 ソーセージとビールを飲み食いし、一日中サウナを楽しみながら、智敏は話のついでを装って、ソフィアのことをこぼした。

 ただ連絡がつかない、という程度の話としてだった。

 「アメリカで付き合っていたんだ」

 「今も会いたいのか?」

 「どうかな。それほどでもないけど、父親が自殺したっていうから、一度は会っておくべきかなと思ってさ。両親とも健康そうに見えたから、なんでそんなことになったのかも気になってね」

 大したことではなさそうに話す智敏の言葉に耳を傾けていたセルゲイは、首を横に振った。

 「持病のせいで自殺したんじゃないだろうな」

 「何だって? その人のことを知ってるのか?」

 「知りはしないが、ロシアでそういう記事が出た場合、真実はどちらかだ」

 「何だ?」

 「処刑されたか」

 「……」

 「拷問を避けるために自殺したか、だ」

 智敏の推測はやはり当たっていた。

 張り裂けそうになる胸を押さえ、平静を装いながら、智敏は気の毒そうな表情で尋ねた。

 「だったら余計に、挨拶だけでもしておく必要があるな。後味が良くないじゃないか。彼女の家族がどうなったのか、ソフィアはどこにいるのか、調べてみてくれないか?」

 「ああ、分かった」

 セルゲイは素直にうなずいた。

 「あ、それから」

 「何だ?」

 智敏はオシポーヴィチという名前も出そうとしたが、やめておいた。

 韓国人である自分とオシポーヴィチの名前が結びつくことを口にするのは、どんなに仲の良い友人が相手でも、危険に思えたのだ。

 数日後、その日最後の講義が終わると、セルゲイは智敏を連れて静かなバーへ向かった。

 普段とは違って黙り込んだまま、彼はスウェーデン製ウオッカのアブソルートを一瓶注文し、立て続けに2杯あおった。

 そして暗い表情で智敏を見つめ、ゆっくりと話を切り出した。

 「ソフィアの両親はルビャンカに呼び出されて、二人とも自殺した。嫌疑はアメリカでの反逆行為だ」

 「ソフィアは?」

 我知らず、切迫した声になった。

 「流刑になった」

 「流刑? どこに」

 「それは分からない」

 智敏はセルゲイにすがりついた。

 「調べてくれ!」

 セルゲイは智敏をしばらく見つめた後、つぶやいた。

 「お前はまだソフィアを愛しているんだな。できるなら一度くらいは会いたいっていう程度じゃなさそうだ」

 「そんなことはどうでもいい。とにかく早く会わないと!」

 「どうしてもか? お前、それがどんなに危険なことか分かってるだろ? 彼女の両親は反逆者だぞ」

 「それでも会わなきゃならないんだ」

 「よく考えろ。追放されるかもしれないぞ。いや、それならむしろラッキーだ。刑務所行きになるかもしれない。最も恐ろしいのはルビャンカの拷問だ。国際スパイとして疑われたら、そこに連行される。ソフィアの両親も、ルビャンカに呼び出されて自殺したんだ」

 「セルゲイ、調べてくれよ」

 セルゲイはため息をつき、智敏を見つめてうなずいた。

 「智敏、お前がそこまで言うなら仕方がないな。だが俺は抜けさせてもらう。親父の部下が、直接お前に伝えるようにしておく。今回のことで、実は親父が激怒しているんだ。お前と付き合うのをやめろと言われたよ。いつもはそんなに厳しい人じゃないんだが」

 「すまない」

 「そもそも、親父はソフィアの両親を粛清した側にいる。本当なら、お前を呼び出して調査するように命令する立場だ。なぜか分からないが、ソフィアという名前を出しただけで機嫌を損ねた感じだった。既に知っていたかのように」

 言葉を濁したセルゲイに、智敏はうなずいた。

 おそらく、モスクワの党書記の耳にまでその娘の名が届くほど、ソフィアの父親は党の怒りを買ったに違いなかった。

 「ありがとう」

 「いや、だがジミー、絶対に……、場所が分かっても絶対に行くなよ」

 セルゲイは最後まで心配して引き留めたが、智敏は上の空でうなずくだけだった。

 セルゲイが送ると言った人物が姿を現すのに、それほど時間はかからなかった。

 数日後、宿所への帰り道で、智敏は誰かがつけてくる気配を感じ、わざとゆっくり歩いた。

 一定の距離を保ったまま、慣れた足取りで後をつけてきたその人物は、やがてひと気のない路地に来ると、智敏のすぐ横に並んだ。

 「チョイ?」

 「そうだ」

 「伝達事項がある」

 セルゲイの送った人物であることを確認し、智敏は緊張を緩めた。

 可能性は低かったが、彼の尻尾をつかんだほかの機関員であることも考えていたからだ。男は目深にかぶった帽子を取ることもなく、感情のこもらない口調で唇だけを動かした。

 「しっかりと記憶するんだ。すべて覚えるまで何度でも繰り返すから、頭の中に刻みつけろ。絶対にメモはするな」

 「分かった」

 「飛行機に乗って黒海近くのクラスノダールに行った後、そこからマイコープに行け。お前が捜している人物はマイコープから5キロ離れた『17年10月』村にいる」

 「17年10月」というのは、レーニンの革命を記念して付けたのだろう。

 強制労働を通して思想犯に対する精神改造を行う流刑地の名前としては、実に的確だった。

 クラスノダール、マイコープ、レーニン。

 智敏が三つの言葉を繰り返していると、男が再び口を開いた。「50世帯ほどの小さな村だ。36番地。村の入り口にあるシラカバの木の下に、トカレフ連発拳銃が埋まっている」

 「何だって?」

 なぜ拳銃を? 智敏は聞こうとしたが、男は同じ言葉を繰り返すだけだった。

 36番地、シラカバ。

 智敏がそれを覚えると、男はくるりと踵(きびす)を返し、路地を出て行ってしまった。拳銃という言葉がずっと引っかかった。

 そこを訪ねるのは、危険な行為だから配慮してくれたのか。党書記であるセルゲイの父親が、そんなことまでするだろうか。

 “万一の時は、ソフィアを連れて脱出しろってことか?”

 智敏は路地を出て、セルゲイに電話をかけた。

 しかし、長い呼び出し音の後、ようやく受話器を取ったのは家政婦だった。

 彼女は智敏の言葉を聞こうともせずに、セルゲイは不在だと言い捨てて、電話を切ってしまった。

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 次回(8月10日)は、「流刑地の住人」をお届けします。


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