愛の知恵袋 152
朝鮮をこよなく愛した男

(APTF『真の家庭』273号[2021年7月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

日韓の友好親善を願って

 日本と韓国の間に無用の軋轢(あつれき)が生じている現状を見て、胸を痛めている人は少なくありません。一刻も早い友好と信頼関係の回復を願ってやみません。

 日本と韓国の交流史の中で、特筆すべき人物は何人もいますが、今回は浅川巧(あさかわたくみ)について話してみたいと思います。(参考『朝鮮の土となった日本人』高崎宗司著・草風館)

 浅川巧は1891(明治24)年、山梨県北巨摩郡甲村に生まれ、7歳上の兄・伯教(のりたか)と4歳上の姉・栄がいました。秋田尋常高等小学校を卒業後、山梨県立農林学校に進学。この時、山梨師範学校を出て教師になっていた兄と甲府で一緒に自炊生活をしましたが、この兄の勧めでメソジスト教会に通うようになり、洗礼も受けました。農林学校を2番の成績で卒業した巧は、秋田県大館営林署に就職しました。

 1913(大正2)年、兄の伯教は朝鮮に渡り、小学校の図工教師をしながら、彫刻作品の制作や陶磁器の研究をしていました。翌年、巧も半島へ渡り総督府農商工部山林課の林業試験所に就職。朝鮮半島の樹木や移入種の育苗研究に力を注ぎ、1931年に亡くなるまで朝鮮半島の植林事業に尽力しました。

▲浅川巧

赤茶けた禿山を緑の森林に

 李朝末期にソウルからシベリアまで徒歩で半島を踏破した探検家ぺ・エム・ジェロトケヴィイチが著書『朝鮮旅行記』の中で、「山は禿山、植生はほとんど見られない。樹木はほとんど皆無」と記述しているように、当時の朝鮮半島は荒涼とした禿山でした。

 原因は「植林する」という習慣がなく、火田民が焼き畑農業を繰り返し、建築材として木を伐採し、炊事やオンドルの薪のために小さな草木まで刈り尽くしていたからです。

 そのため山々は保水力を失い、ひとたび大雨が降れば洪水になります。干ばつと洪水の繰り返しのために、農産物の収穫はひどく不安定で民衆は苦しんでいました。

 日韓合邦後、総督府が最優先課題としたのは自然更生による治山治水の事業でした。

 巧はこの半島に適した樹木を植林して緑の大自然を取り戻すことに心を砕きました。禿山の植林にはミヤマハギが最適であることを発見し、また、「露天埋蔵法」という独自の育苗法で朝鮮五葉松や朝鮮カラ松の育苗を成功させ、全土の植林に貢献しました。

 農林当局は1911年から毎年43日に記念植樹を行い、18年から42年までだけでも造林本数は66224000本に達し、山々に緑の森林が蘇ったのです。

心から朝鮮の人と文化を愛した浅川兄弟

 浅川巧の働きは植林だけにとどまらず、朝鮮の美術工芸の研究と収集にも努めました。

 兄の伯教の美術工芸に関する見識は卓越したもので、後にその道の大家となる柳宗悦(やなぎむねよし)に朝鮮美術工芸研究へのきっかけを与えた人物でありました。その時以来、浅川兄弟と柳宗悦の付き合いは終生変わらぬ深いものになりました

 巧は朝鮮の風習に同調し、普段は朝鮮服を愛用し、朝鮮語を流暢に話し、ソルロンタンやビビンパなど民衆と同じものを好みました。また、朝鮮人の同僚や子供達を非常に大切にし、妻にも内緒で自分の少ない給料から学生たちに奨学金を与えていました。

 貧しい物売りが来ればわざと高い値段で買ったりするので、巧の家の勝手口には、誰かが黙ってお礼の品を置いて行くというようなことがあったようです。

 巧は兄と共に白磁や青磁や木工芸品を優れた芸術として日本の人々に紹介しました。

 植林から風土・文化・芸術まで幅広くかの地を愛した巧は、石戸谷勉と共に『朝鮮巨樹老樹名木誌』を編集し、『朝鮮の膳』や『朝鮮陶磁名考』という名著も残しました。

 1931(昭和6)年、巧は風邪から急性肺炎を起こして逝去。42歳でした。

 知らせを聞いた多くの朝鮮の人々が駆けつけ、巧の遺体の前で号泣したと言います。韓日伝統文化交流協会会長の趙万済氏は「日本人の中で浅川巧ほど韓国人に親しまれている人はいない」と言い、韓国公州民族劇博物館館長の沈両晟氏は「彼の生涯は短かったが、業績は永く生き続ける」と述べています。

 柳宗悦は浅川巧の追悼に当たって、「本当に朝鮮を愛し、朝鮮人を愛した人。そして朝鮮人からも愛された人である」と言い、さらにこう語っています。

 「彼くらい私の無い人は珍しい。彼ほど自分を棄てる事の出来る人は世に多くはいない。彼の補助で勉強した朝鮮人は些少でない。私は彼の行為からどんなに多くを教わったことか、私は私の友達の一人に彼をもった事を名誉に感じる」

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