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預言 11
憤怒

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金辰明・著

(光言社・小説『預言』より)

11 憤怒

 智敏(ジミン)はひと月が過ぎても金浦(キムポ)空港を離れなかった。

 その間、乗客が生きているという数々の憶測とうわさが飛び交った。

 その中には、多くの乗客が生存していて、ソ連の強制収容所に入れられているというとんでもないものもあった。

 だが最後は、北海道に遺体の一部が漂着したため、遺族は残っていた一縷(いちる)の希望さえも捨てざるを得なかった。

 しかし、智敏は根も葉もないうわさをすべて信じた。

 その一つがデマだと分かると次のうわさを待ち、それもデマだと分かると、また次のうわさを待つというように、彼は金浦空港を離れないまま、流れてくるうわさを事実以上に信じてすがりつき、首を長くして待った。

 「崔智敏(チェジミン)さん、もうあきらめて、帰られたらどうですか」

 「どこに帰れっていうんですか?」

 「ここで待っていたって、死んだ妹さんは帰ってきはしませんよ」

 「何だって? この野郎! 俺の妹がなんで死ぬんだ!」

 智敏はトイレに行く時を除いては、絶対に「出口」を離れず、彼を家に帰らせようとする人々に対しては、空港の職員だろうと大韓航空の職員だろうと、誰彼問わずに悪態をついた。

 そして彼らに暴行まで加えたため、ついには警察によって逮捕された。

 警察は逮捕した智敏を空港から遠く離れた地点で釈放したが、彼はまた空港の「出口」に舞い戻った。

 そのような十数回に及ぶイタチごっこの末に、彼は精神科病院に送られ、診察を受けることになった。

 「ふむ、深刻な状態です。耐えられないほどの精神的ショックを受ければ、誰もが一時は病的になりますが、この方は非常に深刻な状態ですね。早くこのつらい記憶から抜け出さないといけません。このまま悪化すれば、一生精神病患者として生きていくことになります」

 しかし、医師の診断など最初から智敏の耳には入らなかった。

 智敏がまるで夢遊病患者のように、昼夜を問わず空港に行き来したため、警察は専任のスタッフを配置し、彼の空港侵入を防いだ。

 こうして、どんな方法でも空港に立ち入ることができなくなった智敏は、ソ連を糾弾する大会や集まりにことごとく足を運ぶようになった。しかし大概、彼の登場は口論と暴行で終わることが多かった。

 「こんなことをしていて、一体何になるんですか?」

 「それなら家でじっとしてろっていうのか?」

 「なぜ韓国はこんなにも卑怯(ひきょう)なのかと言っているんです」

 「これのどこが卑怯なんだ? むしろ勇敢な行動だろ」

 「ハハッ、集まって大声を上げて、国旗を燃やすのが勇敢なんですか? それが韓国にできるすべてなんですか?」

 「じゃあ、どうしろっていうんだ、相手はソ連なんだぞ」

 「やばい奴(やつ)らだって意味ですか? それなら弱い奴に殴られたら殴り返すのに、強い奴に殴られたら、やられるままにじっとしてろってことですか? 奴らが韓国の飛行機を撃墜して、韓国人を殺したっていうのに、集まって大声を上げることしかできないのがこの国なんですか?」

 「おいおい、こいつは全く。誰だって今のこの状況をもどかしく思ってるさ。だが現実として、ほかに方法がないからこうしてるんじゃないか。韓国がソ連を相手に何ができるっていうんだ?」

 「だから黙ってやられるしかないと?」

 「それなら言ってみろよ。一体何をどうするんだ? この前の全斗煥(チョンドゥファン)大統領の談話を見なかったのか? あの人でさえソ連に向かって、報復だとか、そんな言葉は何一つ言わなかったじゃないか」

 「全斗煥、あの野郎が韓国の大統領だなんてな。か弱い国民には銃剣を突きつけておいて、ソ連には復讐(ふくしゅう)はおろか、悪口の一つすら言えないじゃないか。大統領の野郎、ソ連にくそったれどもと言ってみろってんだ」

 「おいおい、言葉には気をつけろよ。全斗煥大統領だけじゃなく、アメリカの大統領だって言葉ではいろいろ言ってるが、ソ連に対して何も行動できずにいるじゃないか」

 「とにかく、全斗煥はくそったれだ!」

 「それならどうしようっていうんだ? ソ連に戦闘機でも送り込もうってのか?」

 「まさにそれだよ。やられた分、いや、それ以上にしてやり返さないと」

 「お前、頭は大丈夫か? 戦闘機を何機送ったって、全部撃墜されるに決まってるだろうが。もっとまともなことを考えろよ」

 「軍隊ってのはそのためにあるんじゃないのか? 自分の国の民間機が撃墜されて国民が殺されたなら、後先かまわずに出撃すべきだろう。国旗を燃やしていれば、それでいいのか?」

 「お前、おかしいんじゃないのか? アメリカを見ろよ。アメリカもたくさんの国民を失って、有力な上院だか下院だかの議員まで失ったのに、何の対応もしないじゃないか。お前の言うとおりなら、アメリカこそ爆撃機を送って核ミサイルでも撃ち込まなきゃならない。それなのに、静かにしてるじゃないか。それならアメリカも卑怯(ひきょう)で、まともな国じゃないっていうのか?」

 「おい、このくそったれ! 卑怯者のくせにべらべらとしゃべってばかりいやがって!」

 口論はいつもこうして火がつき、例外なく智敏は警察へと引き渡されるのだった。

 このようなことが何度も繰り返された挙げ句、ついに智敏は大統領官邸の青瓦台(チョンワデ)近くの孝子洞(ヒョジャドン)に出没し始めた。

 「何だ、お前は? 身分証を見せろ」

 「向こうの付岩洞(プアムドン)に住んでいる親戚を訪ねて来た者です」

 智敏は意外にもおとなしく答えたが、事件が起きたのは、彼が孝子洞に現れ始めてから3カ月目になるある日のことだった。

 青瓦台の外回りを警護する警察官が詰め所から出てくるや、柔らかさと善良さを満面にたたえながら歩いていた智敏の眉がつり上がり、まなざしが突然鋭くなった。

 彼の視線の先には、黒い自動車の行列が通りを滑るように走っていた。

 その瞬間、智敏は稲妻のように自動車の行列の前に飛び出した。

 キキーッ!

 鋭いブレーキ音とともに自動車が止まると、黒いベンツの前後を護衛していたバンから真っ黒なスーツをまとった男が数人、駆け降りてきた。

 彼らの一部は乗用車を体でかばい、残りはサブマシンガンを構えたまま飛び降りてくると、智敏を容赦なく殴りつけた。

 「おい、このくそったれども、殺せ、撃ち殺せ!」

 「何だ、こいつ!」

 四方から罵声が聞こえ、銃床でめちゃくちゃに殴られた。

 智敏の顔は一瞬にして血に染まったが、彼は気を失わなかった。

 「全斗煥、この野郎! 力のないかわいそうな国民には容赦ないくせに、大統領ともあろう者が、自分の国民を100人以上も殺したソ連に対しては一言も言えねぇのか! お前はそれでも大統領なのかよ! 本当に大統領だというなら、今すぐソ連に飛んで行って、死ぬ気で問いただすべきじゃねぇのか? なんで死んだつもりでモスクワに行かねぇんだ! ソ連の奴らにマジで殺されるのが怖いのか? 100人以上も死んだのに、大統領が抗議しにも行けないのかよ! 息を潜めて知らない振りしてるのが大統領かよ! 光州(クァンジュ)ではか弱くて罪のない国民をあんなに容赦なく締めつけておいて、ソ連の奴らには一言も言えないような奴が大統領だなんて! この国はどこまで腐ってるんだ、この野郎!」

 頭や顔の皮膚が裂けて血があふれ出し、失神するほど殴られても、智敏は悲鳴一つ上げることなく大声で叫び続けた。

 「100人以上も死んだっていうのに、ほうき持って掃除なんぞしてるてめぇの面をニュースのしょっぱなに流させるなんて、人間のやることじゃねぇ!」

 死を覚悟して叫び続けた智敏は、何度も殴られてその場に倒れ込み、ついには意識を失ってしまった。

 大統領の警護室は担当検事に、智敏が二度と日の目を見ることができないようにしろという指示を与えた。だが、民政首席秘書官はメディアに事件が漏れることを恐れ、検事の起訴を阻止した。

 このことがあって以来、智敏は集会に参加しなくなり、安宿に引きこもったまま、外出することもなくなった。

 「例の厄介な奴がやっと静かになったな。やはり警護室に恐れをなしたのだろう」

 「俺たち警察だって、もっと強く出ることはできたんだ。ただ、たった一人の肉親を失った人間にあんまりむごいことはできないからな」

 「ともかく、もう1カ月になるのに宿から出てこない。本当に頭がおかしくなったのじゃないだろうな?」

 「放っておけ。俺たちが楽なら、それでいい」

 彼を監視していた情報課の刑事たちは安心し切っていたが、ある日、外出した智敏は数日も経(た)たないうちに、外務部領事僑民(きょうみん)局の局長に暴行を加える事件を起こし、またしても逮捕された。

 事件を受理した検事は、007便の遺族である智敏がほかの誰でもなく、局長を狙って暴行を働いた事実に注目した。

 「崔智敏、お前は外務部の職員を調べて、局長が誰であるかをしっかり確認してから暴行を加えた。つまり、頭がおかしくなったわけではないということだ。話してみろ。なぜよりによって局長を襲ったのだ」

 「……」

 「おい、答えろ! お前はこの事件以前にも、空港で多くの人々に罵詈(ばり)雑言の限りを尽くし、挙げ句の果てには暴力まで振るった。お前は自分だけが被害者だと思っているのか? つらいのはお前だけか? 遺族の皆がみな、お前みたいにごろつきのように振る舞ったら、この国はどうなると思う? 悲しみ憤っているのは遺族だけじゃない。国民全員が狂いそうなほどつらい思いをしているのが、お前の目には入らんのか? 答えろ! 釈放してやったら、また同じことを繰り返すのか? それともおとなしくするか?」

 「……」

 智敏が沈黙し続けるのを見て、検事は頭を抱えた。

 このまま釈放すれば、また暴れることは目に見えていた。

 そうはいっても、007便の惨事で妹を失った智敏を処罰するというのも、むごい仕打ちと言わざるを得なかった。検事はもう一度脅しを入れつつ、何とか方法を見つけ出そうとした。

 「被害者である局長もお前の処罰を望んではいないから、できることなら大目に見てやろうと思っていたが、お前の態度から判断すると、やはり刑務所に送らなきゃならんな」

 それでも智敏は返事をしなかったため、検事は智敏を一旦警察の留置場に入れた後、局長に電話をかけた。

 「このまま釈放すれば、また局長のところに行くかもしれません。相当な根性の持ち主ですよ。そこらの暴力団の親玉より、よっぽど強情な奴ですね。それにしてもあいつが明確に局長を狙って襲ったことに関して、何か思い当たることはありませんか?」

 「私にも分からんね」

 「もしかして今回の007便の惨事と関連して、局長に不満でもあるのではないでしょうか?」

 「不満? 私に?」

 「この男が今まで暴力を振るってきた相手を見てみると、空港職員、航空会社職員、空港警察など、事故と何らかの関連がある者ばかりです。頭がおかしくなっているようにも見えますが、冷静に見れば、今回の事故に関連した不満というわけです。しかし本人が絶対に口を開こうとしないので、どういった事情があるのかさっぱりです。実際のところ、事故の遺族を些細(ささい)な暴行で処罰するのもどうかと思いますし、何か手がかりがあればいいのですが……」

 「ふむ、私が行って聞いてみることにしよう」

 「ありがとうございます」

 検察庁で智敏と対面した領事僑民局長は、彼の口から思いも寄らぬ話が飛び出したため、驚くばかりだった。

 「ここでは到底、傷が癒えそうにありません。アメリカに行って、妹の歩んできた人生を見つめ、後片づけをしてやらないことには、この状態から抜け出せないと思います。俺は一日でも早く、アメリカに行かなきゃならないんです」

 「だから、パスポートをくれという話か?」

 「そうです」

 局長は、智敏がアメリカに行くために自分に暴行を加えたことに呆(あき)れもしたが、一方では、それを理解することもできた。

 智敏がアメリカ大使館からビザをもらうのは至難の業だったし、ましてや、韓国政府のパスポート発給対象にすらなれない現状では、正攻法で行っても到底アメリカの妹の家にたどり着くことはできないはずだった。

 「アメリカまで行って妹の生きた足跡をたどるのは、むしろ、胸がさらに痛むことじゃないのかね?」

 「そうしなければ、俺は死んでしまうと思います。生きていくことなどできません」

 局長は、突然神妙な態度に変わった智敏のために、何とかしてやりたくなった。

 検事もやはり処置に困っていたため、結局智敏は釈放された。そして、局長の計らいでパスポートとビザの取得も可能になった。

 智敏はこうして、アメリカ行きの飛行機に乗り込んだのだった。

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 次回(5月11日)は、「ミスター・ケンシントン」をお届けします。


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