コラム・週刊Blessed Life 157
渋沢栄一を学ぶ意味について

新海 一朗(コラムニスト)

 時代が偉大な人物を生み出すのか、偉大な人物が時代をつくり上げるのか。
 おそらくは、時代と人物の化学反応が激しく起こる時、時代の輝きが生まれ、人物の驚異的な業績が生み出されるものと思われます。

 渋沢栄一(1840~1931)は、幕末に武蔵国榛沢郡(現在の埼玉県深谷市)に生まれ、昭和の初期まで長寿を保った日本屈指の実業家として知られています。
 日本のレベルを超えて、広く世界に知られ、ノーベル平和賞に2度ノミネートされているほどの人物です。

▲渋沢栄一(Wikipediaより)

 彼が「日本資本主義の父」と呼ばれるゆえんは、彼が設立に関わった企業の圧倒的な数を見れば文句なく納得です。
 その数500社というものすごい数ですから常人の成すところではありません。その天才的な起業精神と開拓スピリットに驚きを覚えます。人間の生活に必要な全ての事業を手掛けたと言えます。

 明治政府の財務官僚に抜てきされた渋沢栄一ですが、自ら下野し、本格的な実業家としての道を歩みます。

 日本最初の国立銀行である第一国立銀行の創立(1873年)を果たし、33歳の若社長として就任しました。この銀行が先駆けとなり、次々に、日本の銀行が誕生しました。資本主義の心臓部に当たる銀行がこうして生まれたことにより、日本は欧米を追うかたちで資本主義国家の体裁を整え、内実である産業各部門を強化していきます。

 91歳で大往生するまで旺盛な事業熱を燃やし、経営精神をほとばしらせた人物は、おそらく渋沢栄一をおいて他にいないでしょう。
 それを可能にした根拠は、道徳律(『論語』)に立った事業精神、経営精神を揺るぎないものとして実施するという彼の不動の精神があったからに違いありません。
 事業や経営の中に「道徳律」を求めたのが、渋沢栄一でした。

 論語と経済がどうやって結び付くのかという素朴な疑問が湧き出るのは仕方ないとして、彼の名著『「論語」と算盤』を読むと、びっくりするような言葉に出合います。

 「成功や失敗といった価値観から抜け出して、超然と自立し、正しい行為の道筋にそって行動し続けるなら、成功や失敗などとはレベルの違う、価値のある生涯を送ることができる」と言い放っています。

 もし、成功した人と呼ばれるのならば、それは、人として成すべきことを果たした結果にすぎないと言っています。
 「人として成すべきことを果たす」「価値のある人生を送る」という言葉を前にして、現代人は何を思うでしょうか。

 偉大な経営者、偉大な実業家であればあるほど、目先の成功や失敗に一喜一憂することなく、もっと深く高い道徳倫理に依拠する価値観をしっかり見据えながら、経済活動(経世済民)を行っています。経済は道徳と倫理を実践する場であると言うのです。

 道徳と経済は合一できるものであり、合一できなければ、それは正しい道徳でもなく、正しい経済でもないと看破した渋沢栄一は、毅然と、道徳経済合一論を主張します。

 経済には「成すべからず」(消極的側面)が不可欠であり、同時に「成すべし」(積極的側面)には、経済が不可欠であるという深遠な意味が表裏一体となって含まれているのです。
 こういう倫理と責任を経済の中に求めているのですから、現在の企業が追求する「企業の社会的責任」をすでに百数十年前から実践していた人物が、まさに渋沢栄一だったと言えるのです。